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2007年10月31日

ファミコンの修理が終了

任天堂は31日に以下の機種の修理を終了した。ファミコンの修理まだやっていたんですね。自宅のファミコンは押入れに長い間眠ったままですが、まだ動作すると思いますが・・・どうでしょう。同時期に発売された他メーカーの修理はとっくに終了しているでしょうから、任天堂の姿勢はお客に向かっているんですね。

ちなみに、終了の理由は修理部品の調達が難しくなっているのと、Wiiのバーチャルコンソールで昔のゲームが遊ぶ環境が徐々に整ってきているからだそうです。

・ファミリーコンピュータ
・ファミリーコンピュータディスクシステム
・スーパーファミコン
・ゲームボーイライト
・ゲームボーイポケット
・ニンテンドウ64

すでに終了しているゲーム機は以下の3つ。スーパーファミコンより新しいバーチャルボーイが先に終了してしまっているのって、やはり売れなかったから?今となってはバーチャルボーイ知っている人少ないでしょうけど。

・ゲーム&ウオッチシリーズ
・ゲームボーイ
・バーチャルボーイ

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2007年10月30日

安土城もっと広かった

滋賀県教育委員会は29日、織田信長が築いた滋賀県安土町の安土城が、従来考えられていたよりも南側に約120メートル広かった可能性があると発表した。内堀も設けていたようで、「大坂城などのように堀を構えて守りを固めた、近世城郭の先駆けだったのだろう」としている。

滋賀県教育委員会は、城の南端とされていた石垣に沿って、要所への出入り口「虎口」の遺構を発見した。石垣の高さはわずか1.3メートルから2.5メートル。虎口も敵の侵入に対する備えのない簡単な造りだった。付近に見張り小屋などもなく、この石垣が城の内外を隔てていたとは考えにくいと判断した。(北國新聞2007年10月30日付記事)

地元以外の発掘記事が新聞に載るのは珍しいことですが、今週末の3日(土)に安土城で発掘調査現地説明会が予定されています。きっと今回の発見に関する説明会だと思いますのでと楽しみです。

投稿者 Tadashi : 10:54 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月29日

うさにふとん

夜はめっきり寒くなってきました。冷房で夏抜けなかった毛は、秋になって冷房が止まると抜け始めていたが、最近はようやく落ち着いてきた。うさも寒いんだろうな、と思ってふとんを買ってきた。

うさぎのうさ

早速、においを嗅ぐ。そして、かじる。続けて、掘る!掘る!掘る!

かわいいんだけど、一冬使うんだから大事にしてね!

投稿者 Tadashi : 22:26 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月27日

金沢城跡 来年国史跡として申請

石川県の谷本知事は26日、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産暫定リスト入りに向け、来年一月ごろに金沢城跡の史跡指定を文化庁に申請する意向を明らかにした。史跡の範囲は、金沢城公園の都市計画決定区域の公有地とし、来年秋ごろには指定されるとの見通しを示した。また、金沢城内にある江戸時代の土蔵「鶴丸倉庫」について、来年春にも国の重要文化財の指定を受けられると述べた。同日、金沢市の金沢スカイホテルで開かれた金沢経済同友会との意見交換会で、同友会側の質問に答えた。

城下町金沢の文化遺産群のうち、金沢市が調査を担当している前田家墓所は来年度、辰巳用水は再来年度と、国の史跡指定を目指す時期が示されており、県管理の金沢城跡でも目標時期が明示されたことで、世界遺産の暫定リスト入りへの準備が進むことになる。

鶴丸倉庫については、前田育徳会の尊経閣文庫の資料から鶴丸倉庫の平面図が見つかり、江戸後期の嘉永年間に存在していたことが裏付けられたとして、県はこの平面図とともに、文化庁に国の重要文化財への指定を申請する。

投稿者 Tadashi : 13:20 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月26日

金沢城河北門の寄進事業 橋爪門でも

県議会土木企業委員会は25日開かれ、県側は2010年春の完成を目指す金沢城河北門復元整備で初めて取り組む瓦や壁板の寄進事業について、橋爪門や玉泉院丸庭園など今後の第二期復元整備でも活用を検討する方針を示した。

寄進事業は一口五千円を募り、河北門の瓦や壁板に記名してもらうことで、県民に復元事業への理解と愛着を深めてもらう狙い。1650万円が目標で、これまでに、瓦で62口、壁板は30口の予約があり、来年五月以降、正式に申込みを受け付ける。(2007年10月26日付記事)

石川県土木部公園緑地課 壁板・瓦の寄進について

投稿者 Tadashi : 13:14 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月25日

特別展「地震・地すべり・火事・洪水」 氷見市立博物館

特別展「地震・地すべり・火事・洪水」

昨日に続き秋晴れの今日、氷見市へ行ってきました。目的は氷見市立博物館の特別展「地震・地すべり・火事・洪水」です。越中では木舟城が潰れた天正地震が知られていますが、今回の展示でも木舟城での発掘調査の際に見つかった「地すべり痕」がわかる写真が掲示されており、その被害の程度がうかがい知れます。木舟城が潰れた地震では、飛騨の帰雲城も土砂に埋まったと言われ、現在もはっきりと場所の特定には至っていません。そういえば庄川沿いに帰雲城址の石碑があったはずです。

氷見市は市内の半分以上が丘陵地または山岳地に属し、4分の1の地域で地すべりの可能性があるそうです。砂丘地で育った私には地すべりの経験がなく、実感がわかないのですが、テレビで地すべりの映像をみただけでも恐怖です。

氷見市立博物館の特別展は入場料が無料、図録も200円という安さです。通常展も100円なのでついでに見てきました。過去の図録も受付で販売しており、中世のものをまとめて購入してきました。

博物館は市立図書館と同じ建物に入っており、氷見市の文化施設となっているようです。近くには古代の遺跡や中世の城跡であった朝日山があり、展望台から氷見市街を一望できます。

朝日山公園からの眺望

投稿者 Tadashi : 23:39 | コメント (0) | トラックバック

七尾城 豪雨で被害が拡大

能登半島地震で石垣が崩落した国指定史跡・七尾城跡で、15日深夜から16日未明にかけての豪雨のため新たに18ヵ所で土砂崩れなどが起きていたことが、24日までに分かった。9月に文化庁から交付される補助金の額が決まり、七尾市教育委員会は来年夏までの復旧を目指していた矢先の被災で、修復がさらに遅れることは確実と見られる。七尾を代表する名所だけに、関係者は頭を抱えている。

七尾城跡の石垣は3月の地震で、本丸登り口が幅約2メートル、高さ約5メートル、桜馬場が幅約7.8メートル、高さ3.7メートルにわたり崩落した。先の豪雨では本丸跡の土塁が幅約10メートル、高さ15メートルにわたって崩れるなど、18ヵ所で被害が確認された。駐車場近くの入口では土砂が通路を覆い、敷地内では二次災害を防止するため6ヵ所に10メートル四方のビニールシートが張られた。(北國新聞2007年10月25日付記事)

投稿者 Tadashi : 12:13 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月24日

特別展覧会 「狩野永徳」 京都国立博物館

京都単独開催の特別展覧会「狩野永徳」を見てきました。入場料も高いので、入京してからコンビニで前売券をゲットしました。

特別展覧会 「狩野永徳」

平日だというのに博物館はかなりの人です。土日はさらに混雑するのでしょうか。

特別展覧会 「狩野永徳」 特別展覧会 「狩野永徳」

ゆっくりと狩野派の絵画を堪能しました。国宝は3点、「花鳥図襖」「檜図屏風」「洛中洛外図屏風」。注目は「洛中洛外図屏風」でしたが、一度米沢市に行ったときに見たような見てないような、そのときは今ほど注目していなかったんです。洛中洛外図屏風の前だけは人が動かない。ここだけは見学が大変でした。みんな謙信が描かれていることを知ってか知らずか?あとで平常展のほうでビデオが放映されているのを見たら、こちらを先に見てから見たほうがより楽しめた、と思いました。

出口に展示会図録と展示会グッズが販売されていました。展示会図録も高かったですが、洛中洛外図も拡大されて載っていたので購入しました。たくさん積まれていましたが、どんどん売れていました。「狩野永徳」ブランドはすごい!

特別展覧会 「狩野永徳」

結局ほぼ最終で門をくぐったときは辺りは真っ暗。ライトアップされた建物が、きれいに浮かび上がっていました。

投稿者 Tadashi : 18:26 | コメント (0) | トラックバック

京都 本能寺へ

長浜市から電車で京都へ移動しました。先月からスカパーでNHK大河「信長 KING OF JIPANGU」が始まったこともあって、ちょっとした信長紀行です。

まずは、永禄4年(1561)イエズス会宣教師ヴィレラが信長庇護の下、教会を建てた「南蛮寺跡」を訪問です。とはいえ、石碑だけですが・・・。それもバイクに隠れて見つけるのに苦労しました。参考にビルの写真載せます。

南蛮寺跡 中京区室町通蛸薬師西入ル

南蛮寺跡 南蛮寺跡

そこからさらに西へ進むと、信長が明智光秀に討たれた本能寺跡があります。本能寺の変のあった本能寺は4回目に建築されたものです。ちょっと前のインターネットの案内では古い小学校とあるのですが、今はすでに新しい建物が建っていて、特養老人ホームと高校になっていました。

本能寺跡 中京区蛸薬師油小路下ル

本能寺跡 本能寺跡

本能寺跡

次に、現在の本能寺に行きました。本堂後ろに信長のお墓(公廟)がありました。宝物殿には先の本能寺跡で発見された遺物なども展示されていましたが、展示内容は満足いくものではなかったです。

本能寺

信長公廟

最後に、目的の京都国立博物館に向かいましたが、入る前に近くの方広寺と豊国神社に行きました。大坂の陣の原因ともなった梵鐘を見学後、伏見城の遺構と伝えられる豊国神社の唐門を見学しました。かなり大きな門で、細工もかなり凝ったものでした。人がひっきりなしにくるので、残念ながら無人の写真を撮ることはできませんでした。

方広寺の梵鐘

豊国神社の唐門

投稿者 Tadashi : 15:01 | コメント (0) | トラックバック

特別展 歴史のなかの鉄砲伝来

特別展 歴史のなかの鉄砲伝来 特別展 歴史のなかの鉄砲伝来

全国的な秋晴れのなか、朝早く出発して長浜城歴史博物館で開催中の特別展「歴史のなかの鉄砲伝来」を見てきました。近江は戦国時代からの火縄銃の一大生産地であった国友のあった地です。今回の展示会では、鍛治道具や千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館からたくさんの鉄砲コレクションが展示されることから注目していました。

展示室にずらっと並べられた鉄砲や大砲のコレクションは圧倒されるものがあります。鉄砲の作り方の展示を含めてすばらしい展示の数々でした。

投稿者 Tadashi : 11:35 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月22日

湯涌温泉紀行

秋晴れの今日、金沢の奥座敷と言われる湯涌温泉に行ってきました。金沢近郊に長年住んでいながら湯涌へ行くのは初めてです。ずっと行ってみたい理由があったので念願の訪問でした。

まず、温泉郷の入口近くにあった旧江戸村から移設された茅葺き農家群を見学しました。現在3棟建っており、昨年オープンしたばかりです。まだまだ整備の途中であり、計画では茅葺き住宅がさらに3軒ほど建つそうです。興味は便所だったのですが、農家の高田家は昔ながらのものでしたが、名主の野本家は便所の戸を開くと最新の洋式トイレがあってがっかりしました。

旧江戸村施設 茅葺き農家群

それから洋風建造物として有名で、石川県重要文化財でもあった白雲楼ホテル跡へ向かいました。破産後廃墟となった話は時々地元新聞で読んでしましたが、現在はそのほとんどが取り壊されていました。湯涌温泉唯一の高台にあったこのホテルからの眺望はさぞかし良いものだったでしょう。

白雲楼ホテル

白雲楼ホテル

破産まで白雲楼ホテル敷地内にあった氷室ですが、現在は金沢湯涌夢二館や総湯のある場所の裏手の高台にある薬師堂の脇に移築されていました、というより新築でしょうか。現在の氷室の中には発砲スチロールの箱が数箱、中には雪があるのか?ないのか?藩政期には氷室に保存された雪を殿様に献上したそうですが、現在でも6月1日に行事が行われ、ニュースでよく見ます。

湯涌温泉 氷室

湯涌温泉 氷室

氷室を見たあと、真昼間から総湯に入ってきました。湯涌の湯は注がれた瞬間は白濁していて、しばらくすると透明になるようです。このあたりから総湯の名称である「白鷺の湯」が来ているでしょうか?なかなか雰囲気のある湯ですね。

湯涌温泉総湯 白鷺の湯

実は、今回の目的は旧江戸村に金沢城玉泉院丸の塀が移築されたという話を聞いていたので、まだあるのかなと思っていたのですが、江戸村の場所が分からなかったのです。総湯の番台で白雲楼ホテルの更に上だということを聞いて、最後に行ってきました。

旧江戸村

旧江戸村では現在の茅葺き農家群の移築に向けた作業が進んでいました。雨ざらしの環境は閉園してから10数年経って廃墟と化していましたが、茅葺き建物だけは外観もしっかりとしていました。さすがです。残念ながら金沢城から移築されたという塀はないようでした。

今回、旧江戸村の場所をGoogleマップで下調べしていたのですが、実はその場所が白雲楼ホテルだったことを後から気づきました。航空写真でも白雲楼ホテルの建物が見えますので、すでに数年前の写真だとわかります。その場所からさらに山頂に移動するとポツポツと建物が残る場所が見えます。そこが旧江戸村です。Googleマップで間違いを見つけてしまった瞬間でした。

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2007年10月21日

二曲城跡発掘調査現地説明会

本日二曲城(ふとげじょう)跡で今年度の発掘調査現地説明会が午前と午後の2回開催されました。私は午後の部に参加してきました。告知が急だったのと、あまり多くに告知されなかったので、参加者は少なかったですが、その分ゆっくりと見学し説明が聞けました。

二曲城跡は平成16年度から5ヵ年計画で発掘調査が進められています。最初の2年は一の郭、続く2年は二の郭を中心の調査です。本年度は4年目となります。

二曲城跡発掘調査現地説明会 二曲城跡発掘調査現地説明会

二曲城跡発掘調査現地説明会 二曲城跡発掘調査現地説明会

出土物は少なく、石臼や青磁・白磁などの陶磁器のかけらが出ていますが、鳥越城跡に比べても圧倒的に数が少ないということで、一時的な詰の城の役割しかなかったと推測されます。また、今回も戦闘の形跡は出てきませんでした。

二曲城跡発掘調査現地説明会

今年度の最大の目玉は一の郭の南側下の郭の石垣の発見です。大きさもマチマチな石積みは中世の山城という感じ一杯ですが、単なる土塁の土留めの役割でしょうか。破却の痕が認められるため2段程度しか出ていませんが、石垣の下にはさらに1メートル以上の空堀跡も発見され、堀最下部からは相当の高さとなり、詰の城の形態を見せてくれます。

二曲城跡発掘調査現地説明会

昨年に続く二の郭では昨年度半分見つかっていた掘立柱建物跡の残り部分が確認され、4×2間の規模です。

他には、二の郭から一の郭への道を探すためのトレンチもしましたが、今回も道の発見には至りませんでした。現在一応の登山道はありますが、復元に向けては本来の道の発見があるのが望ましく、仮に獣道のような登山道では、破却された二曲城では発見が難しいかもしれません。

投稿者 Tadashi : 18:46 | コメント (0) | トラックバック

秋季特別展 「一向一揆と織田軍団」

秋季特別展 「一向一揆と織田軍団」

白山市の鳥越一向一揆館の秋季特別展「一向一揆と織田軍団」を見てきました。展示物は、朝倉家古文書、浅井三代記、姉川合戦記、姉川軍記、信長記、絵本石山軍記、絵本拾遺信長記などです。

中でも天正12.13年頃に前田利家が佐々成政と退陣したときの加賀・越中境の諸城までの距離を、津幡の小城山(津幡城?)を基点としてかかれた史料「加賀越中境諸城里程図」は面白いものでした。確かに、越中境の松根城には「成政方」の文字が、対する朝日山城には守備についた「村井」の文字が見えます。末森までは二里とありますが、一里で何キロですか?(一里約3.9kmらしいです)

絵本がたくさん並べてありましたが、私も一冊ぐらいほしいです。でも高いのですよ、武将や合戦ものは・・・

投稿者 Tadashi : 18:30 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月19日

古本屋散歩

今日は朝から雨模様です。以前から一度行きたいと思っていた古本屋(というより古本コーナー)に行ってきました。

場所は金沢市鳴和のナルックス(年配の方には城北ショッピングセンターというほうがわかりやすいでしょうか)の三階100円コーナーです。今年の3月オープンで、金沢市の日頃古書を購入しているお店のホームページで存在は知っていたのですが、「常時5000冊、すべて100円(税込105円)」という宣伝文句が書かれていたので、時間がまとめて取れるときにゆっくりと、と思っていました。

歴史関係の雑誌くらいは掘り出し物があるかと思っていきましたが、意外にもいろいろな本があって、中には発掘調査報告書なんかもあり、まとめて20冊近く購入してしまいました。まあ、こんな場所で発掘調査報告書をしげしげと眺めているのは私くらいなものかもしれませんが・・・。値札と見ると古書店で購入すれば1000円する、なんて本もあり、まとめて1万円得した感じです。

歴史雑誌「歴史読本」などは、以前より中世・戦国に関するものをかなり集めたつもりでいたのですが、まだまだ持っていないものがあるものだと思いました。中にはオークションで売れば倍以上にはなるな、というものもあるのでしょうが今はそんな余裕もないのでやめておきます。

投稿者 Tadashi : 15:55 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月18日

金沢城大学 歴史・文化コース 第3回

平成19年度 金沢城大学 歴史・文化コース 第3回

本日、金沢城大学の第3回目です。前回は公開講座だったので、実質2回目になります。1回目に引続き、テキスト「よみがえる金沢城1」を使った解説講座です。本日の講師は、金沢城調査研究所の正見泰氏です。本研究所で唯一の建築担当だそうです。

大坂の陣後の一国一城令により、加賀藩も金沢城を残して一旦廃城となったようだが、小松城は三代利常の隠居城として修復され、富山城は利常隠居後の富山藩分藩の際に修復された。同時期に大聖寺藩も分藩されているが、古来の大聖寺城は修復されず、城下に陣屋を構えている。大聖寺藩は城の修復が認められなかったようだが、理由はよくわからない。

ちなみに、小松城には二層三階の天守風建造物があったようだが、会津若松城の庭にあった三階数奇屋風建物に類似していたものかどうかという話があった。

テキストとして使用している「よみがえる金沢城1」(北國新聞社)の67ページに1箇所訂正があります。
「花熨斗釘隠金具」 → 「花熨斗釘隠金具」

投稿者 Tadashi : 20:13 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月16日

加賀藩 土清水塩硝蔵発掘現場

先週の新聞記事で発掘現場説明会が開かれたことを読んでから気になっている場所があった。加賀藩が火薬の原料となる塩硝(えんしょう)を保管した倉庫があったとされる場所である。もともとは、金沢城内にあった塩硝蔵であるが、相次ぐ火災に懲りたのか、江戸後期には辰巳用水沿いの現在地に移されたという。

新聞報道でも金沢市涌波1丁目とあるだけで詳細な場所は良く分からなかったが、地図を調べていると、「塩硝蔵跡堤公園」の文字が・・・

早速入ってみた。

塩硝蔵跡堤公園

その場所はすでに整備されたきれいな公園であった。地図ではここが「土清水塩硝蔵跡」とするものがあるが、公園に建つ石碑によると、この一帯は灌漑用に辰巳用水の水を貯めた堤があった場所で、この公園の南側一帯が火薬製造所、西側一帯が焔硝庫(石碑のまま)となっている。

塩硝蔵跡堤公園

確か、この公園でも1箇所調査したはずだったと思い、探していたらトイレの裏あたりに1箇所、一度掘られて埋め戻されたような場所を発見した。が、すでに埋められていて何か出てきたかまでは分からなかった。

公園北の階段を上ると、辰巳用水沿いに遊歩道があった。きちんと整備されていて、こんな場所があることに驚いた。

辰巳用水遊歩道

東へ少し進むと、土清水から涌波へ降りてくる階段があった。「塩硝坂」の案内板によると、五箇山で製造された塩硝をここにあった塩硝蔵に運ぶ経路の一部らしい。

塩硝道

塩硝坂から南側には果樹園と畑が広がっていたが、そこで新聞記事にあった発掘現場を見つけた。

土清水塩硝蔵発掘現場

幸いにもビニールカバーもなく、そのままの状態だったので、ゆっくりと見学した。断層には瓦の破片が残り、破片が出ている地層の下は黒く焼けたような色の土が堆積していた。石が並んだ側溝のような遺構も見られたが、やはり説明を聞かないと見ただけで調査の成果を類推するには知識が不足していた。とはいえ、現場を自分の目で確認できたのはひとつの成果である。

土清水塩硝蔵発掘現場

土清水塩硝蔵発掘現場

土清水塩硝蔵発掘現場

投稿者 Tadashi : 16:38 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月12日

元は金沢城内の十三重塔? 兼六園の六重塔+能美の七重塔

兼六園の瓢池(ひさごいけ)の六重の石塔「海石塔」と、能美市寺井町の奥野八幡神社にある「七重塔」が元は金沢城にあった十三重塔で、加賀藩三代藩主前田利常が小松城に隠居する際に分離された可能性が大きいことが、石塔研究家の石井嘉之助さんの調査で裏付けられた。二つの塔はいずれも加賀地方産出の同じ石材でできており、上下に重ね合わせた笠の比率が数学的にも合致するためである。

二つに分かれた「十三重塔」の上部にあったとみられるのは、兼六園の海石塔。高さ約四メートルで、笠石は六重となっている。一方、「十三重塔」の下部とみられる奥野八幡神社の七重塔は高さ約5メートルで、利常が小松城に移る際に持参したと伝わる。廃藩置県後、旧寺井村有志に払い下げられ、同神社に奉納された。現在は見掛け上は六重となっており、二重目は小松城跡地に埋もれているという説がある。

二基は笠の四隅が上がる意匠が一致。笠に小松の滝ヶ原石、笠と笠をつなぐ軸部に金沢の青戸室石を使う点や、明かりを入れる「火袋」に坪野石を使用した点も同じだった。県内に同様な石を組み合わせた塔はないという。(北國新聞2007年10月12日付記事)

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2007年10月09日

加賀藩の火薬製造・貯蔵施設 土清水塩硝蔵を確認

金沢市文化財保護課と市埋蔵文化財センターは8日までに、同市涌波町などで加賀藩による黒色火薬の製造、貯蔵施設であった「土清水塩硝蔵」を発掘調査し、塩硝を保存していたとみられる土蔵の礎石と、梅鉢紋入りも含む多数の屋根瓦を確認した。史料の乏しい軍事施設の実態に迫る成果で、市は引き続き調査を進め、敷地面積約8万平方メートルとされる塩硝蔵の範囲特定と全容解明を目指す。

塩硝蔵の存在は、幕末から明治初期にかけての建物の配置を記した「土清水製薬所絵図」などの史料で知られていたが、遺構として確認されたのは初めて。発掘は、国史跡指定を目指す辰巳用水の詳細調査の一環として、9月10日から涌波堤公園周辺の2カ所で行われ、うち涌波町の1カ所から土蔵の存在を示す20個の礎石と、土蔵が本瓦葺きであったことを示す大量の赤瓦が見つかった。瓦には加賀藩主前田家の家紋である梅鉢紋が入った軒平瓦も含まれていた。

加賀藩の塩硝は江戸時代、国産最良の品質で生産量も最大とされ、幕末には五箇山から年間5トン余りを買い付けていた。塩硝蔵はもともと金沢城内に設けられていたが、火事が相次いだため、1658年に土清水に移転し、1870年以降に廃止されたらしい。

塩硝を硫黄、木炭とともに粉末化した辰巳用水沿いの工場「三品搗蔵(みしなつきくら)」は今回の調査では確認できなかった。(北國新聞2007年10月9日付記事)

投稿者 Tadashi : 12:47 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月06日

金沢城大学公開講座 シンポジウム「金沢城と伝統技術」

本日、金沢城研究調査室が金沢城調査研究所に格上げになった記念として、また金沢城大学の公開講座としてシンポジウム「金沢城と伝統技術」が県文教会館で行われました。前日の新聞報道によりかなりの人が来ています・・・と思っていたら案外少なかったです。建造物や石垣がテーマのときはもっと多かったのですが、連休だったためか、土曜日開催だったためか、テーマの問題か、よく分かりません。

金沢城大学公開講座 シンポジウム金沢城と伝統技術

講演は京都造形芸術大学教授の中村利則氏による「建築史からみた金沢の伝統技術」。前日の新聞記事はネタばらしかと思っていましたが、最後に少し触れただけでした。

金沢や江戸前田藩邸には室町幕府に仕えた名工達が大勢召抱えられ、徳川江戸幕府以上に室町時代からの伝統技術の本流にあった、という話は地元民として誇らしいとともに、外様として芸術重視政策で幕府の目を逃れた面もあるのかと想像してしまいました。

金沢城大学公開講座 シンポジウム金沢城と伝統技術

講演のあとは、パネルディスカッションとして、金沢城調査研究所副所長の木越氏をコーディネーターとして、中村氏、金沢城調査研究所所長の北垣氏、県立美術館館長の嶋崎氏、金沢美術工芸大学教授の太田氏、長岡造形大学教授の飛田氏の5氏をパネラーに迎えて、江戸時代の伝統技術の継承に関して意見交換が行われました。

金沢城大学公開講座 シンポジウム金沢城と伝統技術

江戸時代の伝統技術は寛永期がひとつの興隆期であり、華やかな意匠や異なる形状の共存といった部分においては加賀前田藩は他の追従を許さないようである。華やかな意匠のシンボル的存在の二の丸御殿と異なる形状の共存のシンボル的存在である辰巳櫓、生きているうちに復元された姿を拝みたいものである。

投稿者 Tadashi : 22:07 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月05日

新聞で講演会のネタばらし? 金沢城辰巳櫓と西本願寺飛雲閣は共通デザイン

宝暦の大火(1759年)で焼失した金沢城・辰巳櫓が、西本願寺の飛雲閣と共通の建築デザインだったことが、京都造形芸術大学の中村利則教授の調べで分かった。

中村教授が着目したのは二層構造だった辰巳櫓の宮守堀側の一層目。石垣を登ってくる敵兵を攻撃するため、二カ所の「出し」と呼ばれる防御拠点が設けられていたことが平面図、古文書などから分かっている。二つの屋根には直線的な合掌型ラインを持つ「千鳥破風」と、曲線的な「唐破風」の二種類がそれぞれ採用されていた。中村教授は「同じ層の同じ面に異なるデザインの破風が並ぶのは例がない」と指摘。現存する建物の中では、飛雲閣しかないという。

中村教授はいずれも寛永年間の流行を反映したものだとし、「こうしたデザインは、建物をより大きく見せる役割を果たす。辰巳櫓が『守る』機能よりも『見せる』ことを重視して築かれた可能性がある」と述べた。中村教授は6日1時半から、金沢市の県文教会館で開かれるシンポジウム「金沢城と伝統技術」に参加し、「建築史からみた金沢の伝統技術」と題して講演する。(北國新聞2007年10月5日付記事)

明日、金沢城大学の公開講座で中村教授が講演することになっているのですが、前日のこの記事は明日の教授の主張を一つ先取りしてバラしているのではないか?と思うのですが、宣伝効果も抜群でしょうね。興味本位な人たちが多くなると、折角の公演中におしゃべりする人がいて非常に迷惑なのだが・・・

投稿者 Tadashi : 20:29 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月04日

金沢城 河北門復元の現在(いま)

近くまで行ったついでに金沢城の河北門復元現場を見て来ました。本日雨の予報による影響もあるのでしょうか。防水シートをかけたまま作業は行われていました。

金沢城河北門復元現場

作業場の隅には掘り出された鉄管が積まれていました。たくさんの鉄管が埋められているものです。掘り出してしまっているということは今は使われていないのでしょうか。もともとは第九師団駐屯時代か金沢大学キャンパス時代か、後者のためでしょうか?

金沢城河北門復元現場

今年度中には石垣が積まれ始める予定ですが、こんなペースで本当に始まるのかなと思います。

投稿者 Tadashi : 23:08 | コメント (0) | トラックバック

金沢城大学 城と庭の魅力コース 「兼六園の石造物」

金沢城大学には「歴史・文化コース」と「城と庭の魅力コース」があり、歴史・文化コース1回と城と庭の魅力コース全3回が公開講座として誰でも参加できる。とはいえ、城と庭の魅力コースは平日の昼間なので参加できる人は限られるが・・・

本日は「城と庭の魅力コース」の第1回として、石塔研究家の石井嘉之助氏によって「兼六園の石造物」というテーマで講演が行われました。講演には定員いっぱいの約90名の方が参加していました。

金沢城大学 城と庭の魅力コース 「兼六園の石造物」

兼六園内の石灯篭と石塔は、隣接する成巽閣や金沢神社、兼六園事務局、三芳庵敷地内のものを除くと、石灯篭が18基、石塔が6基あるということです。講演では、各石灯篭と石塔の大きさや使用されている石材産地などが解説されました。石井氏は石材に大変詳しく、初心者の私には難しかったですが、これからは石造物にも興味をもって見ることができそうです。

最も興味を持ったのは、瓢池(ひさごいけ)に立つ海石塔(四角層塔型石灯籠)はもともと玉泉院にあったとされる十三重塔ではないかという話。確証はないものの、玉泉院から2つに分けて、兼六園と小松城に移動されたものではないか、小松城のものは明治以降の払い下げで現在は寺井の奥野八幡神社にあるということなので、後日両方を確認してみたい。石造物ひとつにも歴史あり!・・・ですね。

講演終了後に、近くの藩老本多蔵品館に行ってきました。ここは前田家一番家老の本多家の歴史や伝来の美術品を展示しています。私、隣の県立歴史博物館には何度も行きましたが、ここは初めてでした。

藩老本多蔵品館 特別展・武装の美 藩老本多蔵品館 特別展・武装の美

今回は、特別展「武装の美」のちらしをたまたま目にしまして、甲冑がたくさん並ぶということで見て来ました。常設展・特別展ともに、初代当主の本多政重のものが多いですね。初代は何かと大切にされるのでしょうか。

展示を見ていると、おそらく館長さんでしょうか、本多家の上屋敷絵図や下屋敷地図についてわざわざ解説していただきました。ただ見てるとわからないことも話を聞くと理解が進みます。

館長さんによると今回の特別展で非常に珍しいのは、鑑定書付きの鎧兜です。この鑑定書、「折り紙」というのだそうですが、由緒正しいことを「折り紙付き」ということの語源だそうです。折り紙自体は当時のものではなく、後世のものですが非常に珍しいものです。それ自体に価値があるかどうか分かりませんが、他に展示しているところを見たことありません。

今回の特別展は11月28日(水)まで、興味ある方はぜひ訪れてみて下さい。

投稿者 Tadashi : 20:54 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月03日

NHK熱中時間

本日のNHK総合の「その時歴史が動いた」は「歴史ドキュメント ゼロワン」という特別番組でしたが、続けて15分枠で「熱中時間」という番組をしていました。

今回のテーマは「城郭めぐり」

これはおもしろそうだと見てみました。内容は、「岡山県に住む森本基嗣さんが熱中しているのが城跡めぐり。ほとんど何のこん跡も残っていない城跡を求めて、道なき道を突き進む森本さんに密着し城跡めぐりの魅力を探る」というものですが、整備されていない山城めぐりに番組を見ながら「わかる!わかる!」と思ってしまいました。興味ない人が見たら、何で何もない山に熱中できるのか、と思うのでしょうが・・・

再放送が来週月曜日(8日)の夜中午前2:20~2:35にあるようです。

投稿者 Tadashi : 23:09 | コメント (0) | トラックバック

金沢城 太鼓塀修復に現代工法

昨年度から「平成の大修理」に入った国重要文化財、金沢城石川門で、左右に延びる太鼓塀を補強する控柱に、一部、現代的な工法や材料が採用される見通しとなった。これまでの発掘調査の成果を受け、控柱は約百年ぶりに江戸中期の形状に復元される方向だが、石川県教育委員会は維持管理に優れるコンクリート製基礎の使用を検討している。県教育委員会は文化財の復元と現代工法の調和を図るモデルケースとしており、文化庁に形状変更を申請する。

復元に当たって、江戸中期の控柱のままでは、木製柱が地面にそのままでは、木製柱が地面にそのまま差し込まれているため根本が腐食しやすく、引き抜きの力に対して弱いという問題点が浮上していた。地震や台風による破損や、耐用年数の短さ、維持管理費の急増が懸念されている。

そこで、県教育委員会は、控柱の根本を石製柱として上部の木製柱と金属製の心棒でつなぎ、地下はコンクリート製基礎を置いて石製柱をしっかり固める復元案を作った。史実とは異なる形状になるが、県教育委員会は「文化財の保存修理は維持管理も考慮しなければ、かえって損傷の原因になる可能性がある」(文化財課)として、文化庁の理解を得ていく考えである。(北國新聞2007年10月3日付記事)

投稿者 Tadashi : 13:06 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月01日

F1日本グランプリ レース見えなかったために5万円を7000人に返却へ

一部報道によると、30年ぶりにF1を開いた富士スピードウェイで運営上のトラブルが相次いだようである。

仮設スタンドの一部では、コースに向かっての傾斜が不足したため、死角ができ、走行する車が見えない席があった。この場所を6万1000円(3日間通し、大人)の指定席で販売していたが、自由席券とみなし、対象の7000人に差額の5万円を返却することに決めた。

また、今回は、会場周辺の混雑を防止するため、会場付近を交通規制。車での来場を禁止、すべての観客を最寄り駅や指定の駐車場からバスで会場入りさせる「チケット&ライド」方式を採用した。それでも渋滞を防ぐことはできず、富士スピードウェイによると、30日は85人が決勝の開始に間に合わなかった。前日の29日は乗り場に通じる会場内の道路が陥没。バスが動けず、約2万人の帰りの客が雨中で長時間待たされた。開催された3日間で計28万2000人(主催者発表)が訪れていた。

期間中は天候不良など悪天候だったが、30年ぶりの開催に万全を期したはずであり、あまりにお粗末である。去年は鈴鹿に行ったが、今年は富士がチケット&ライド方式を採用したからかチケット代が高くなり、周辺の宿泊や交通手段に納得いかなかったため断念した。しかし、折角高いチケット代を払ってレースが見えなかった人がいたとは気の毒である。7000人とは富士もあまりにお粗末な数ではないか。

投稿者 Tadashi : 01:10 | コメント (0) | トラックバック