2008年02月01日

岡部 長盛 (おかべ ながもり)

(1568~1632)江戸時代前期の大名。永禄11年生まれ。岡部正綱の長男。天正12年家督をつぐ。小牧・長久手の戦いに従軍し、徳川家康にしたがう。丹波亀山藩(京都府)、福知山藩をへて寛永元年美濃(岐阜県)大垣藩主岡部初代となる。5万石。茶道に通じた。寛永9年11月2日死去。65歳。名は別に康綱。通称は弥次郎。

岡部 宣勝 (おかべ のぶかつ)

(1597~1668)江戸時代前期の大名。慶長2年生まれ。岡部長盛の長男。大坂冬の陣、夏の陣に父とともに出陣。寛永9年美濃(岐阜県)大垣藩主岡部家2代となる。播磨(兵庫県)竜野藩、摂津高槻藩(大坂府)をへて、17年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家初代。6万石。寛文8年10月19日死去。72歳。通称は左京。

岡部 行隆 (おかべ ゆきたか)

(1617~88)江戸時代前期の大名。元和3年生まれ。岡部宣勝の長男。寛文元年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家2代となる。弟高成に5000石。豊明に2000石をわけあたえた。貞享4年12月25日死去。71歳。幼名は竜千代。号は紹慶。

岡部 長泰 (おかべ ながやす)

(1650~1724)江戸時代前期~中期の大名。慶安3年4月8日生まれ。岡部行隆の子。貞享3年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家3代となる。文武をこのみ、江戸にいるときは林ほう岡について儒学をまなんだ。享保9年7月17日死去。75歳。初名は宣就。通称は帯刀。

岡部 長敬 (おかべ ながたか)

(1680~1724)江戸時代中期の大名。延宝8年10月3日生まれ。岡部長泰の次男。享保6年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家4代となる。知行高に基ずく軍制「享保備定」を制定した。8年泰者番。享保9年7月25日死去。45歳。初名は致清、宣隆。通称は大助。

岡部 長著 (おかべ ながあきら)

(1712~56)江戸時代中期の大名。正徳元年12月26日生まれ。岡部長敬の子。兄の早世により、享保9年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家5代となる。文武の奨励、倹約の奨行などを柱とした享保の条目をさだめた。謡曲、絵画にすぐれていた。宝暦6年6月4日死去。46歳。

岡部 長住 (おかべ ながすみ)

(1740~1809)江戸時代中期の大名。元文5年6月3日生まれ。岡部長著の次男。宝暦6年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家6代となる。父が家中にしめした享保の条目の心得書きをだし普及につとめた。明和9年隠居。文化6年8月8日死去。70歳。

岡部 長修 (おかべ ながなお)

(1746~96)江戸時代中期の大名。延享3年3月29日生まれ。岡部長著の4男。兄長住の養子となり、明和9年和泉(大坂府)岸和田の養子となり、明和9年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家7代。同年領民にしめした「大慈公三カ条の御触書」はその後の藩の農村統治の手本とされた。病弱のため安永5年隠居。寛政7年11月25日死去。50歳。

岡部 長備 (おかべ ながとも)

(1763~1804)江戸時代中期~後期の大名。宝暦13年3月4日生まれ。岡部長修の長男。安永5年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家8代となる。享和3年11月20日死去。41歳。

岡部 長慎 (おかべ ながちか)

(1787~1859)江戸時代後期の大名。天明7年2月29日生まれ。岡部長備の次男。享和3年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家9代となる。粗衣粗食を常とし倹約令をだすなど藩財政再建をはかった。天保4年の隠居後「岡部氏家訓」をつくった。安政5年12月25日死去。72歳。通称は第次郎、千弥。号は南山。

岡部 長和 (おかべ ながより)

(1807~50)江戸時代後期の大名。文化4年7月3日生まれ。岡部長慎の長男。天保4年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家10代となる。幕府の天保の改革にそった倹約令をだし、藩内でもその徹底化をはかった。14年泰者番。嘉永3年9月24日死去。44歳。通称は直吉、弥次郎。

岡部 長発 (おかべ ながゆき)

(1834~55)幕末の大名。天保5年9月21日生まれ。岡部長慎の6男。兄長和の養子となり、嘉永3年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家11代。藩校講習館を設立し、学問奨励につとめる一方。ロシア軍艦来航時には沿岸警備の任にあたった。安政2年2月14日死去。22歳。

岡部 長寛 (おかべ ながひろ)

(1809~87)幕末の大名。文化6年3月13日生まれ。岡部長慎の次男。安政2年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家12代となる。後継者問題で勤王派と佐幕派が対立した岸和田騒動では、勤王派が対立した岸和田騒動では、勤王派を表明した。明治20年2月13日死去。79歳。通称は第次郎。

岡部 長職 (おかべ ながとも)

(1855~1925)明治~大正時代の大名、官僚。嘉永7年11月16日生まれ。岡部長発の長男。伯父岡部長寛の養子となり、明治元年和泉(大坂府)岸和田藩主岡部家13代。8年欧米に留学。帰国後、外務省にはいり22年外務次官、23年貴族院議員、30年東京府知事。41年第2次桂内閣の法相となった。大正14年12月27日死去。72歳。

2008年02月04日

奥平 貞勝 (おくだいら さだかつ)

(1512~95)戦国~織豊時代の武将。永正9年生まれ。三河(愛知県)作手の領主。松平氏。今川氏にしたがい、後年は武田氏に属した。文禄4年10月9日死去。84歳。通称は監物。号は道文。

奥平 貞能 (おくだいら さだよし)

(1537~99)戦国~織豊時代の武将。天文6年生まれ。奥平貞勝の子。今川氏真、ついで徳川家康にしたがう。一時武田氏につかえたが、元亀4年武田信玄が死ぬとふたたび家康に属し、長篠の戦いで功をたてる。のち上野(群馬県)小幡城主。慶長3年12月11日死去。62歳。

奥平 信昌 (おくだいら のぶまさ)

(1555~1615)織豊~江戸時代前期の武将、大名。弘治元年生まれ。奥平貞能の長男。徳川家康につかえる。長篠の戦いでは、武田勝頼の大軍から長篠城をまもりぬき、家康の長女亀姫を妻にする。上野(群馬県)小幡城主をへて、慶長6年美濃(岐阜県)加納藩主。10万石。初代京都所司代をつとめた。慶長20年3月14日死去。61歳。初名は定昌。通称は九八郎。

奥平 家昌 (おくだいら いえまさ)

(1577~1614)江戸時代前期の大名。天正5年生まれ。奥平信昌の長男。母は徳川家康の長女亀姫。関ケ原の戦いに際し、徳川秀忠にしたがい信濃(長野県)上田城を攻める。慶長6年下野宇都宮藩主奥平家第1次初代。10万石。慶長19年10月10日死去。38歳。前名は家綱。通称は九八郎。

奥平 忠昌 (おくだいら ただまさ)

(1608~68)江戸時代前期の大名。慶長13年生まれ。奥平家昌の長男。慶長19年下野宇都宮藩主奥平家第1次2代。元和5年下総古河(茨城県)に転封となる。「宇都宮釣り天井事件」後の8年宇都宮へ再封。寛文8年2月19日死去。61歳。通称は九八郎。

奥平 昌能 (おくだいら まさよし)

(1633~72)江戸時代前期の大名。寛永10年7月21日生まれ。奥平忠昌の長男。寛文8年下野宇都宮藩主奥平家第1次3代となる。殉死禁止令に反して家臣杉浦兵衛が忠昌のあとをおい殉死したこと、また二七忌法要でおきた刀傷沙汰の処理の不手際をとがめられ、同年11万石から9万石に減じられ出羽山形へ移封された。寛文12年7月2日死去。40歳。通称は九八郎。

奥平 昌章 (おくだいら まさあきら)

(1668~95)江戸時代前期の大名。寛文8年3月24日生まれ。肥前福江藩(長崎県)藩主五島盛勝の次男。奥平昌能の養子となり、寛文12年5歳で出羽山形藩主奥平家2代をつぐ。貞享2年転封となり、下野宇都宮藩主奥平家第2次初代。9万石。元禄8年4月8日死去。28歳。

奥平 昌成 (おくだいら まさしげ)

(1694~1746)江戸時代前期~中期の大名。元禄7年11月6日生まれ。奥平昌章の次男。元禄8年2歳で下野宇都宮藩主となる。丹後(京都府)宮津藩主をへて、享保2年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家初代。10万石。藩礼(享保札)の発行、倹約令の発布などをおこなった。延享3年11月14日死去。53歳。幼名は熊太郎。初名は昌春。

奥平 昌敦 (おくだいら まさあつ)

(1724~58)江戸時代中期の大名。享保9年4月12日生まれ。奥平昌成の次男。延享3年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家2代となる。三役所(町奉行、郡奉行、目付)運上役所の設置、倹約令の発布、藩礼発行などの藩校改革をおこなった。宝暦8年9月26日死去。35歳。

奥平 昌鹿 (おくだいら まさか)

(1744~80)江戸時代中期の大名。延享元年7月15日生まれ。奥平昌敦の長男。宝暦8年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家3代となる。国学を賀茂真淵にまなび、和歌をよくした。前野良沢を保護して蘭学研究をたすけ、儒者藤田敬所を採用して藩校改革につとめた。安永9年7月24日死去。37歳。初名は昌邦。著作に「久受ずら」など。

奥平 昌男 (おくだいら まさお)

(1763~86)江戸時代中期の大名。宝暦13年6月14日生まれ。奥平昌鹿の長男。安永9年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家4代となる。天明2年中・下級武士の生活苦の訴えに独断で米倉をあけた家老たちを処分し、中級武士たちの建言をいれて藩校改革をすすめたが失敗した。天明6年3月21日死去。24歳。通称は九八郎。

奥平 昌高 (おくだいら まさたか)

(1781~1855)江戸時代中期~後期の大名。天明元年11月4日生まれ。薩摩鹿児島藩主島津重豪の次男。奥平昌男の養子となり、天明6年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家5代。藩政刷新をはかり、藩校進しゅう館をつくる。国学、和歌を渡辺重名にまなぶ。蘭学を奨励し、オランダ語辞書「蘭語やくせん」を編修させ刊行した。安政2年6月10日死去。75歳。通称は九八郎、左衛門尉。号は豊海。歌集に「千代の古道」。

奥平 昌のぶ (おくだいら まさのぶ)

(1809~32)江戸時代後期の大名。文化6年1月25日生まれ。奥平昌高の次男。文政8年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家6代となる。12年角木新田をひらいた。天保3年11月30日死去。24歳。

奥平 昌みち (おくだいら まさみち)

(1813~42)江戸時代後期の大名。文化10年3月25日生まれ。奥平昌高の5男。兄昌のぶの養子となり、天保4年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家7代。6年黒沢庄右衛門を起用して藩政改革に着手し、加印札の発行、特産品の販売・統制などを実施した。天保13年9月17日死去。30歳。幼名は勇吉。通称は九八郎。

奥平 昌服 (おくだいら まさもと)

(1831~1901)江戸時代後期の大名。天保元年12月25日生まれ。奥平昌のぶの長男。叔父奥平昌みちの養子となり、天保13年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家8代。第1次幕長戦争では藩兵をひきいて出陣、戊辰戦争では新政府軍に味方し、会津に兵をおくった。明治34年2月27日死去。72歳。

奥平 昌ゆき (おくだいら まさゆき)

(1855~84)幕末~明治時代の大名、華族。安政2年4月1日生まれ。伊予(愛媛県)字和島藩主伊達宗城の3男。奥平昌服の養子となり、慶応4年豊前中津藩(大分県)藩主奥平家9代。維新後アメリカに留学。のち東京府会議員、芝区長などをつとめた。伯爵。明治17年11月26日死去。30歳。通称は義三郎、九八郎。

小倉 公雄 (おぐら きんお)

(生没年不詳)鎌倉時代の公ぎょう。洞院実雄の次男。小倉家の祖。文永3年(1266)参議、のち権中納言、正二位となる。9年後さが上皇の死去をかなしみ出家した。歌は「続古今和歌集」以下のちょくせん集」以下のちょくせん集に百余首のせられている。法名はひん覚。

小倉 実数 (おぐら さねのり)

(1264~1349)鎌倉~南北朝時代の公ぎょう、歌人。文永元年生まれ。小倉公雄の子。参議をへて正安元年権大納言。正二位。二条派の歌人で、歌は「新後せん和歌集」以下のちょくせん集に71首とされている。「藤葉和歌集」のせん者であり、吉田兼好と親交があった。貞和5 正平4年9月7日死去。86歳。通称は富小路大納言。法名は空覚、阿覚。

小倉 実起 (おぐら さねおき)

(1622~84)江戸時代前期の公ぎょう。元和8年2月8日生まれ。右近衛中将をへて、明暦2年参議、寛文12年権大納言となり、正二位にすすむ。天和元年娘の中納言典侍が生んだ霊元天皇の第1皇子(のちの済深入道親王)の出家に反対したため官を解かれ、子の公連、ひろすえとともに佐渡に流された。貞享元年3月18日配所で死去。63歳。初名は季雅。

小倉 ひろ季 (おぐら ひろすえ)

(1651~1720)江戸時代中期の公ぎょう。慶安4年7月7日生まれ。小倉実起の次男。父、兄公連とともに佐渡にながされたが、元禄8年ゆるされて京にもどり、12年家名相続をみとめられる。正徳元年参議、享保2年権中納言となる。従二位。享保5年10月25日死去。70歳。初名は季慶、のち季通。

小倉 豊季 (おぐら とよすけ)

(1718~1830)江戸時代後期の公ぎょう。天明元年4月23日生まれ。小倉見季の子。文化9年参議、文政元年権中納言となる。正二位。文政13年6月28日死去。50歳。

小倉 輔季 (おぐら すけすえ)

(1824~91)幕末~明治時代の公ぎょう。文政7年8月6日生まれ。甘露寺国長の3男。小倉ずい季の養子。安政5年(1858)通商条約ちっきょに反対し、延臣88人の列参にくわわる。文久3年左近衛権中将。維新後、桂宮すみこ内親王のしこうとなる。正三位。明治24年1月18日死去。68歳。

大仏 朝直 (おさらぎ ともなお)

(1206~64)鎌倉時代の武将。建永元年生まれ。北条時房の子。母は足立遠元の娘。大仏氏の祖。延応元年評定衆となる。翌2年の父の死去により遠江(静岡県)守護をつぐ。建長元年には新設された引衆の頭人となった。文永元年には新設された引付衆の頭人となった。文永元年5月3日死去。59歳。相模(神奈川県)出身。通称は相模四郎。

大仏 宣時 (おさらぎ のぶとき)

(1238~1323)鎌倉時代の武将。暦仁元年生まれ。大仏(北条)朝直の子。武蔵守評定衆をへて、建治3年引付頭。弘安10年連署となり、執権北条貞時を補佐した。のち陸奥守に転じた。正安3年連署を辞任し、出家。歌人としても知られた。元享3年6月30日死去。86歳通称は武蔵五郎。初名は時忠。

大仏 宗宣 (おさらぎ むねのぶ)

(1259~1312)鎌倉時代の武将。正元元年生まれ。大仏(北条)宣時の長男。母は北条時広の娘。評定衆、越訴奉行、小侍奉行などをへて、永仁5年六波羅深題南方。嘉元3年連署。応長元年鎌倉幕府11代執権となる。歌が「新後せん和歌集」以下のちょくせん集に27首のる。正和元年6月12日死去。54歳。

大仏 貞房 (おさらぎ さだふさ)

(1272~1310)鎌倉時代の武将。文永9年生まれ。大仏(北条)宣時の子。引付衆、評定衆をへて延慶元年六波羅深題北方となる。在任中の2年12月2日京都で没した。38歳。歌が「玉葉和歌集」「続千載和歌集」にのる。

2008年02月05日

大仏 維貞 (おさがぎ これさだ)

(1286~1327)鎌倉時代の武将。弘安9年生まれ。大仏(北条)宗宣の子。母は北条時茂の娘。評定衆、引付頭人、陸奥守などをへて、正和4年六波羅深題南方。元享4年に辞任して鎌倉へかえり、評定衆に再任され、嘉暦元年連署となった。歌が「玉葉和歌集」以下のちょくせん集におさめられている。嘉暦2年9月7日死去。42歳。初名は貞宗。

大仏 貞直 (おさらぎ さだなか)

(?~1333)鎌倉時代の武将。大仏(北条)宣時の孫。元徳3 元弘元年足利尊氏とともに京都にいき、大将としてごだいご天皇の行在所笠置山、楠木正成の赤坂城を陥落させた。正慶2 元弘3年新田義貞の鎌倉攻めを極楽寺坂、稲村ケ崎でふせぎ、5月22日脇屋義助の陣に突入して討ち死にした。

大仏 高直 (おさらぎ たかなお)

(?~1334)鎌倉時代の武将。大仏(北条)維貞の子。正慶2 元弘3年、河内(大坂府)金山千早城の楠木正成軍を包囲した幕府軍の大将のひとり。幕府の滅亡で包囲を解き奈良にしりぞく。のち降伏し、建武元年京都東山で処刑された。通称は陸奥右馬助。

押小路 師富 (おしこうじ もろとみ)

(1434~1508)室町~戦国時代の官し。永享6年生まれ。中原師郷の子。直講、助教をへて、長禄3年大外記となる。文明3年殻倉院別当。正四位上。節会記や日記をのこす。連歌もつくり、「新せんきつくば集」にとらわれている。永正5年11月20日死去。75歳。法名は覚城。

押小路 師資 (おしこうじ もろすけ)

(1744~1801)江戸時代中期~後期の公ぎょう。寛保4年1月1日生まれ。せん生みつはるの子。兄押小路充の養子。宝暦4年大外記となる。造酒正、掃部頭を歴任。従三位。享和元年6月27日死去。58歳。日記に「師資記」。

押小路 まな子 (おしこうじ なみこ)

(1808~84)江戸時代後期の女官。文化5年10月7日生まれ。せん生正路の次女。押小路師武の養女。天保6年ひろの宮(孝明天皇)の御乳人となり、弘化3年大御乳人。明治4年宮中をしりぞいたが、その間の日記「押小路みな子日記」は、幕末維新期の宮中の日常を知る貴重な資料とされる。明治17年9月2日死去。77歳。初名は満子。

押小路 師徳 (おしこうじ もろのり)

(1800~46)江戸時代後期の公ぎょう。寛政12年1月8日生まれ。せん生正路の長男。押小路師よしの養子。文化7年押小路家をつぎ、大外記となる。掃部頭、造酒正を歴任。従三位。弘化3年1月18日死去。47歳。編著に「せい星出現之事」。

押小路 師親 (おしこうじ もろちか)

(1822~79)江戸時代後期~明治時代の公家、華族。文政5年10月7日生まれ。押小路師徳の次男。兄師身の養子。弘化4年大外記。正五位下。明治12年8月13日死去。58歳。

小田 治久 (おだ はるひさ)

(1283~1353)鎌倉~南北朝時代の武将。弘安6年1月12日生まれ。元弘の乱では鎌倉幕府軍にしたがう。北条氏滅亡後は南朝に属し、常陸(茨城県)の守護職の奪還をねらう。常陸小田城を拠点に高師冬とたたかうが敗北、以後足利軍に属して南朝とたたかった。文和元 正平7年12月11日死去。70歳。常陸出身。初名は高知。

小田 孝朝 (おだ たかとも)

(1337~1414)南北朝~室町時代の武将。建武4 延元2年生まれ。小田治久の子。常陸(茨城県)小田城主。鎌倉公方足利氏満の小山義政征討に先鋒をつとめる。嘉慶元 元中4年氏満にそむいて義政の子若犬丸をたすけ男体山(難台山)城にこもるが、翌年降伏した。書や和歌にたくみで、小田流剣法の祖としても知られる。応永21年6月16日死去。78歳。

小田 朝久 (おだ ともひさ)

(1417~55)室町時代の武将。応永24年3月5日生まれ。小田持家の子。常陸(茨城県)小田城主。享徳3年鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害して関東に内乱がつずいたとき、朝久は父とともに成氏についた。常陸小栗城の上杉勢を攻撃中、享徳4年閏4月24日病死。39歳。名は知久ともかく。

小田 氏治 (おだ うじはる)

(1534~1602)戦国~織豊時代の武将。天文3年生まれ。常陸(茨城県)小田城主。結城、佐竹氏ら近隣の領主と抗争をくりかえす。永禄12年手ばい坂の戦いで佐竹氏に敗れ、支城の土浦城にのがれる。豊臣秀吉の小田原攻めにしたがわなかったため所領をうしない、越前(福井県)にうつった。慶長6年閏11月13日死去。68歳。通称は小太郎。

小槻 今雄 (おずきの いまお)

(生没年不詳)平安時代前期の官し。近江(滋賀県)栗太郡の豪族で小槻山公と称し、太政官左少史兼算博士となる。貞観15年(837)京都に本居をうつすことをゆるされ、阿保姓をあたえられた。以後、小槻家は太政官の史と算博士を世襲した。

小槻 奉親 (おずきの ともちか)

(963~1025)平安時代中期の官し。応和3年生まれ。小槻忠臣の子。正暦2年右少史より右大史、ついで左大史、大夫史となり、殻倉院別当を兼任。のち淡路守となり赴任、寛弘8年任国からの帰途比叡山にのぼり出家した。万寿元年12月死去。62歳。

小槻 隆職 (おずきの たかもと)

(1135~98)平安後期~鎌倉時代の官し。保延元年生まれ。小槻政重の3男。みぶ官務家の祖。長寛3年兄永業の跡をついで、左大史につき官務となる。のち伊賀守、修理東大寺大仏長官をかねる。文治元年源頼朝追討宣旨を指揮したことにより解官されたが、建久2年官務に再任された。建久9年10月29日死去。64歳。

小槻 広房 (おずきの ひろふさ)

(?~1202)鎌倉時代の官し。小槻永業の子。大宮流官務家の祖。仁安2年右大史となる。算博士、主税権助、日向守などを歴任。文治元年叔父小槻隆職解官のあとをうけて左大史につき官務となる。建久2年隆職の復帰により、官務の地位をうしなう。建仁2年6月15日死去。

小槻 季継 (おずきの すえつぐ)

(1192~1244)鎌倉時代の官し。建久3年生まれ。大宮流算博士小槻公尚の子。貞応2年みぶりゆう小槻国宗の死後、官務となる。以後20年余にわたって在職し、大宮流官務家の地位を確立した。この間、修理東大寺大仏長官、紀伊守、筑前守などを兼任した。寛元2年9月27日死去。53歳。

小槻 有家 (おずきの ありいえ)

(?~1280)鎌倉時代の官し。小槻通時の子。隆職流みよ官務家。建長4年兄敦方の跡をつぎ、左大史となる。同族の広房流大宮家とあらそい、官務・氏長者

小槻 ただ遠 (おずき ただとお)

(?~1366)南北朝時代の官し。みぶ流官務家小槻千宣の子。正和5年主殿頭、建武3 延元元年官務となる。備前介、記録所こうとう、修理東大寺大仏長官などを兼任。ごだいご政権下では記録所や雑そ決断につとめた。貞治5 正平21年5月4日死去。日記に「ただ遠宿ね記」。

小野 妹子 (おのの いもこ)

(生没年不詳)飛鳥時代の遣隋使。推古天皇15年(607)聖徳太子の命により「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書をもって隋(中国)に派遣され、16年遣隋使のはや世清をともなって帰国。隋の返書の尊大さをあやんでか、帰国途中返書をうしなったとして提出しなかった。同年僧い高向玄理、南淵請安ら留学生、学問僧とともにふたたび隋にむかい、17年帰国した。隋ではそいんこうとよばれた。

小野 毛人 (おのの みえし)

(?~677)飛鳥時代の官し。小野妹子の子。小野毛野の父。慶長18年(1613)に発見された毛人の墓誌には、天武朝の太政官兼刑部大ぎょで、位は、天武朝の太政官兼刑部大ぎょで、位は大綿上とある。「続日本紀」の毛野伝には「小綿中毛人」としるされている。天武天皇6年12月死去。

小野 毛野 (おのの けぬ)

(?~714)飛鳥~奈良時代の官し。小野妹子の孫。小野毛人の子。持統天皇9年遺新羅使となり渡航した。文武天皇4年筑紫大弐となる。大宝2年より朝政にくわわり、和銅元年中納言兼中務ぎょう。

小野 永見 (おのの ながみ)

(生没年不詳)奈良~平安時代前期の官し。小野滝雄・みね守の父。征夷副将軍、陸奥介をつとめた。賀陽豊年、石上宅つぐと親交があり、「りょう雲集」に漢詩2首をのこす。延暦年間(782~806)に死去。

小野 いね守 (おのの みねもり)

(778~830)平安時代前期の公ぎょう。宝亀9年生まれ。小野永見の子。小野たかひらの父。内蔵頭、皇后宮大夫などをへて、弘仁13年参議兼大宰大弐となり、のち勘解由長官兼刑部ぎょう。漢詩文にすぐれ、「凌雲集」をせんしん。同集のほか「文華秀麗集」「経国集」に30首おさめられている。天長7年4月19日死去。53歳。名は峰守ともかく。

小野 たかむら (おのの たかむら)

(802~853)平安時代前期の公ぎょう。延暦21年生まれ。小野みね守の長男。文章生となり、のち「令義解」の編集にくわわる。天長10年東宮学士。承和元年遺唐副使となるが、5年大使とあらそって乗船せず、隠岐(島根県)に流された。のちゆるされて14年参議。従三位、左大弁。漢詩、和歌にすぐれ「扶桑集」「和漢郎えい集」「古今和歌集」などに作品がある。仁寿2年12月22日死去。51歳。通称は野相公、野宰相。

小野 恒えだ (おのの つねえだ)

(808~860)平安時代前期の官し、書家。大同3年生まれ。小野たかむらの従弟。承和2年少内記となり、大内記、大宰少弐、右少弁、播磨守などを歴任。草書、かい書の名筆といわれ、その書は世人の手本とされた。貞観2年5月18日死去。53歳。

小野 俊生 (おのの としなり)

(生没年不詳)平安時代前期の官し。小野たかむらの子。貞観9年(867)大内記から大判事、ついで石見守となる。のち刑部大輔などを歴任した。名は一説に後生。

小野 美材 (おのの よしき)

(?~902)平安時代前期の官し、漢詩人。小野たかむらの孫、俊生の子。寛平9年従五位下、大内記となる。書にすぐれ、醍醐天皇のだいじょうえに際しびょうぶ歌をかいた。漢詩は「本朝文粋」に、和歌は「古今和歌集」などにおさめられている。延喜2年死去。通称は野美材。

小野 小町 (おのの こまち)

(生没年不詳)平安時代前期の歌人。六歌仙、三十六歌仙のひとり。父母、経歴などに諸説があり、たしかなことは不明。絶世の美女としてかたりつがれ、歌舞伎、義太夫、謡曲などの題材となった。歌は「古今和歌集」「後せん和歌集」などのちょくせん集に六十余首おさめられ、そのなかに文屋康秀らとの贈答歌もある。

小野 好古 (おのの よしふる)

(884~968)平安時代中期の武人、公ぎょう。元慶8年生まれ。小野たかむらの孫。小野道風の兄。天慶3年追捕凶賊使となり、藤原純友の乱を鎮圧。のち参議、従三位。大宰大弐をつとめ、大宰府天満宮の曲水の宴を創始したという。和歌にもすぐれ、「後せん和歌集」などに歌がおさめられている。康保5年2月14日死去。85歳。

小野 道風 (おのの みちかぜ)

(894~967)平安時代中期の書家、歌人。寛平6年生まれ。小野たかむらの孫。小野好古の弟。醍醐、朱雀、村上の3天皇につかえ、木工頭、内蔵頭などをつとめた。和様の書を確立して、藤原佐理、藤原行成とともに三せきとよばれた。「後せん和歌集」に5首のる。康保3年12月27日死去。73歳。名は「とうふう」ともよむ。作品に「屏風土代」「玉泉じょう」など。

小野寺 義寛 (おのでら ぎかん)

(1123~1203)平安時代後期~鎌倉時代の武将。保安4年生まれ。山内首藤義通の子。小野寺氏の祖。源為義にしたがって功をたて、下野(栃木県)都賀郡小野寺保をあたえられ本拠とした。建仁3年死去。81歳。

小野寺 通綱 (おのでら みちつな)

(1153~1221)平安後期~鎌倉時代の武将。仁平3年生まれ。小野寺義寛の子。源頼朝につかえ、源平の争乱では源範頼軍に属してたたかう。鎌倉幕府御家人の列にくわわり、文治5年(1189)奥州攻めに従軍して、出羽雄勝郡(秋田県)の地頭職をあたえられた。承久3年、承久の乱に参戦して字治川付近で討ち死にした。69歳。名は道綱ともかく。

小野寺 経道 (おのでら つねみち)

(1212~73)鎌倉時代の武将。建暦2年生まれ。小野寺義重の子(一説に三浦泰村の次男とも)。下総大泉荘(千葉県)から出羽雄勝郡(秋田県)稲庭に移住。出羽小野寺氏の祖。文永10年閏8月14日死去。62歳。法名はそうぜん。

小野寺 泰道 (おのでら やすみち)

(1403~78)室町時代の武将。応永10年生まれ。小野寺氏継の子。長禄(1457~60)ごろ南部氏の勢力下にはいったが、寛正6年(1465)から4年間にわたる南部氏との戦いに勝利し、本拠地の出羽横手城(秋田県)にはいる。文明9年12月6日死去。75歳。

小野寺 輝道 (おのでら てるみち)

(?~1583)戦国時代の武将。小野寺惟道の子。出羽雄勝・平鹿・山本郡(秋田県)一帯を支配。のち最上地方(山形県)まで力をのばす。将軍足利義輝につかえた。天文年間に湯沢城主三春信濃守をやぶり、湯沢城にはいる。天正11年死去。名は景道とも。

小野寺 義道 (おのでら よしみち)

(1566~1646)織豊時代の武将。永禄9年8月5日生まれ。小野寺輝道(景道)の子。出羽横手城(秋田県)城主。関ケ原の戦いで、西軍の上杉景勝に味方し、石見(島根県)津和野に追放された。正保2年11月22日死去。80歳。名は別に綱元。通称は孫十郎、弥七郎。

小山 政光 (おやま まさみつ)

(生没年不詳)平安後期~鎌倉時代の武将。下野(栃木県)小山荘を領有し、下野大つかとして勢力をのばした。源頼朝にしたがい、御家人となり下野守護となる。文治5年(1189)の奥州藤原氏攻めで活躍した。妻は頼朝の乳母寒河尼。通称は四郎。

小山 朝政 (おやま ともまさ)

(1155~1238)平安後期~鎌倉時代の武将。久寿2年生まれ。小山政光の長男。源頼朝に属し、寿永2年源義広の軍をやぶって、常陸(茨城県)、下野(栃木県)で地頭職をあたえられる。一ノ谷の戦い、奥州の藤原泰ひら征討などで活躍。下野守護となり、播磨(兵庫県)の守護をかねた。嘉禎4年3月30日死去。84歳。下野出身。通称は小四郎。

小山 朝長 (おやま ともなが)

(1188~1229)鎌倉時代の武将。文治4年生まれ。小山朝政の子。下野(栃木県)の守護、小山城主。父とともに鎌倉幕府につかえて左衛門尉となる。寛喜元年11月17日死去。42歳。初名は政義。通称は四郎。

小山 朝村 (おやま ともむら)

(生没年不詳)鎌倉時代の武将。小山朝政の子。一説に小山長村の子とも。寛喜年間(1229~32)に下野(栃木県)小山氏から薬師寺(南河内町)の地に分立し、薬師寺氏の祖となる。鎌倉幕府につかえ、阿波守、検非遺使、左衛門尉をつとめた。武勇で知られ幕府の重鎮となる。初名は政村。通称は五郎三郎。

小山 長村 (おやま ながむら)

(1217~69)鎌倉時代の武将。建保5年生まれ。小山朝長の長男。寛喜2年(1230)ごろ家督をつぎ、下野(栃木県)の守護、小山城主となる。ほかに武蔵、陸奥、尾張、播磨などに所領をもった。文永6年8月15日死去。53歳。通称は五郎。

小山 長政 (おやま ながまさ)

(?~1252)鎌倉時代の武将。小山朝長の次男。小山長村の弟。祖父の小山朝政のあとをうけ、寛喜2年(1230)ごろ、常陸(茨城県)下妻の地頭職をあたえられる。寛元2年鶴岡八幡宮の放生会に隋兵として供ぶした。建長4年9月29日死去。下野(栃木県)出身。通称は四郎。

小山 秀朝 (おやま ひでとも)

(?~1335)鎌倉~南北朝時代の武将。下野(栃木県)の守護、小山城主。元徳3 元弘元年鎌倉幕府の大仏貞直の軍にくわわり、笠置城、赤坂城などを攻める。正慶2 元弘3年新田義貞の反幕府の挙兵に応じて鎌倉を攻略。建武2年北条時行の中先の乱で北条軍と武蔵府中でたたかって敗れ、同年7月13日討ち死にした。初名は高朝。

小山 秀朝 (おやま ひでとも)

(?~1335)鎌倉~南北朝時代の武将。下野(栃木県)の守護、小山城主。元徳3 元弘元年鎌倉幕府の大仏貞直の軍にくわわり、笠置城、赤坂城などを攻める。正慶2 元弘3年新田義貞の反幕府の挙兵に応じて鎌倉を攻略。建武2年北条時行の中先代の乱で北条軍と武蔵府中でたたかって敗れ、同年7月13日討ち死にした。初名は高朝。

2008年02月06日

小山 朝郷 (おやま ともさと)

(?~1346)南北朝時代の武将。小山秀朝の子。建武2年父の戦死により家督をつぎ、下野(栃木県)の守護となる。建武4 延元2年南朝方の北畠あき家軍に小山城を攻められ一時捕えられる。興良親王をたて、南朝に対して分派行動をくわだてたりした。貞和2 興国7年4月13日死去。幼名は常犬丸。初名は朝氏。通称は小四郎。

小山 氏政 (おやま うじまさ)

(1329~55)南北朝時代の武将。元徳元年生まれ。小山秀朝の子。下野(栃木県)の守護、小山城主。足利尊氏にしたがい、各地を転戦した。文和4 正平10年7月23日死去。27歳。通称は左衛門佐。

小山 義政 (おやま よしまさ)

(?~1382)南北朝時代の武将。小山氏政の子。文和4 正平10年家督をつぎ、下野(栃木県)の守護、小山城主となる。康暦2 天授6年宇都宮基綱を討ったため、鎌倉公方足利氏満に攻められる。降伏、反抗をくりかえし3度目の敗戦で逃亡中、永徳2 弘和2年4月13日自害した。通称は小四郎。法名は永賢。

小山 若犬丸 (おやま わかいぬまる)

(?~1397)南北朝~室町時代の武将。小山義政の長男。至徳3 元中3年父の遺志をつぎ、鎌倉公方足利氏満に反抗して挙兵するが敗れる。嘉慶元 元中4年と応永3年の2度にわたり再挙をはかるが敗れ、会津にのがれ応永4年1月15日自害した。下野(栃木県)出身。名は隆政。通称は悪四郎。

小山 秀綱 (おやま ひでつな)

(?~1602)戦国~織豊時代の武将。小山高朝の子。下野(栃木県)小山城主。越後(新潟県)上杉氏と相模(神奈川県)北条氏の間にあって、つねに立場をかえながら家の存立をはかる。天正3年北条氏に居城を攻めおとされ、のち配下となる。18年豊臣秀吉による小田原攻めで、北条氏とともに没落した。慶長7年死去。

小山 政種 (おやま まさたね)

(生没年不詳)戦国~織豊時代の武将。小山秀綱の子。下野(栃木県)小山城主の父が上杉謙信に従属した際、謙信の人質となる。のち父とともに北条氏にしたがう。天正8年(1580)ごろ家督をついだとされるが、14歳で死去したという説もある。幼名は伊勢千代丸。通称は小四郎。

葛西 清重 (かさい きよしげ)

(1162~1238)鎌倉時代の武将。応保2年生まれ。豊島清光の子。葛西氏の祖。本領は下総葛西御や。元暦元年源範頼にしたがって西海の平氏追討にくわわる。文治5年(1189)奥州藤原氏攻略の際の功により奥州総奉行となり、御家人の統率にあたった。承久の乱には、幕府の重臣として軍議に参加。嘉禎4年9月14日死去。77歳。通称は三郎。法名は定蓮。

葛西 清経 (かさい きよつね)

(1235~87)鎌倉時代の武将。嘉禎元年生まれ。葛西清時の子。陸奥へ下向、牡鹿郡石巻によった。弘安10年11月7日死去。53歳。法名は経蓮。

葛西 清宗 (かさい きよむね)

(?~1336)鎌倉~南北朝時代の武将。葛西清経の子。建武3年1月28日後醍醐天皇方として京都神楽岡で戦死した葛西江判官三郎左衛門(「梅こう論」)は清宗といわれているが、異説もある。法名は明蓮。

葛西 清貞 (かさい きよさだ)

(?~1350)南北朝時代の武将。葛西清宗の子。陸奥石巻(宮城県)日和山城主。父とともに南朝方の北畠あき家に属し、建武3 延元元年足利尊氏を追って京都にいき、各地を転戦。あき家の死後帰国し、興国元 暦応3年あき家の弟あき信をむかえて陸奥国府攻めなどにくわわった。観応元 正平5年3月16日死去。法名は円蓮。

葛西 晴たね (かさい はるたね)

(1493~1551)戦国時代の武将。明応2年生まれ。伊達たね宗の子。葛西晴重の跡をつぐ。天文5年陸奥石巻(宮城県)日和山城から登米郡寺池城に本拠をうつす。18年足利義晴から「晴」の一字を拝領。天文20年10月20日死去。59歳。幼名は牛猿丸。初名は高信。法名は律蓮。

葛西 晴信 (かさい はるのぶ)

(生没年不詳)戦国~織豊時代の武将。葛西晴胤の子。陸奥登米郡(宮城県)寺池城主。伊達氏とむすんで元亀2年(1571)、天正元年(1573)の2度大崎義隆をやぶる。豊臣秀吉の小田原攻めには領内情勢が不安定なため参加せず、所領を没収された。初名は信清。法名は知山。

風早 実種 (かざはや さねたね)

(1632~1711)江戸時代前期~中期の公ぎょう、香道家。寛永9年8月17日生まれ。姉小路公景の次男。風早家の祖。千宗たんに茶をまなび、かたわら鳥丸光広に師事して香の奥義をきわめ、風早流をおこした。正二位、権中納言。宝永7年12月24日死去。79歳。通称は三位。

風早 実積 (かざはや さねつみ)

(1691~1753)江戸時代中期の公ぎょう。元禄4年閏8月29日生まれ。風早公長の子。享保12年正三位にすすみ、元文4年(1739)参議となる。寛保3年従二位。宝暦3年7月19日死去。63歳。

風早 公雄 (かざはや きんお)

(1721~87)江戸時代中期の公ぎょう。享保6年1月22日生まれ。風早実積の子。参議をへて、安永8年(1779)権中納言となり、天明7年正二位にすすむ。天明7年8月14日死去。67歳。初名は公金。号は桂渚。