稲生 勘由左衛門 (いなお かげゆざえもん)
?~永禄十二年(1569)十二月。
伊勢あんき郡の住人。北方諸家の一つ(勢州軍記)。永禄十一年(1568)、信長と神戸氏との和睦に伴い、信長に従う(勢州軍記)。
翌年十二月、信長が北畠氏と講和し、南伊勢の城割りを行う時、案内者を務めたが、開城を拒否した曽原城の天花寺のために射殺された(勢州軍記・勢州兵乱記)。
« 2007年08月 | メイン | 2007年10月 »
?~永禄十二年(1569)十二月。
伊勢あんき郡の住人。北方諸家の一つ(勢州軍記)。永禄十一年(1568)、信長と神戸氏との和睦に伴い、信長に従う(勢州軍記)。
翌年十二月、信長が北畠氏と講和し、南伊勢の城割りを行う時、案内者を務めたが、開城を拒否した曽原城の天花寺のために射殺された(勢州軍記・勢州兵乱記)。
生没年不詳。
尾張の土豪。野伏として「太閤記」に登場する。即ち、永禄九年(1566)、秀吉の工作によって味方となり、これに進言してすのまた近辺に夜討ちをかけて、その賞として信長から領知五十貫を賜ったという。
「武功夜話」によると、寄木村の住人、岩倉の守護代家の老臣である稲田修理亮の嫡子で、前野宗康の婿ということになっている。そして、岩倉落城後は蜂須賀党に入り、その頭衆の一人。常に蜂須賀正勝の下にあってすのまた城築城、稲葉山攻城、金ケ崎退陣に参加。秀吉の播磨平定戦まで従ったという。子孫は近世大名蜂須賀家の老臣を務めた(蜂須賀分限帳)。
天文二十年(1551)~慶長十六年(1611)二月六日。
伊賀守。一夢理斎と号す。いは「直家」ともある。
丹後田辺の人。砲術家として有名で、松平忠吉・浅野幸長らは彼の弟子である(浅野家文書)。
初めは一色満信の臣。弓木城城主だったが、城を去ってきょ士となり、その後、細川(長岡)忠興に仕えるという(寛永伝)。
慶長五年(1600)七月、何故か、忠興夫人(ガラシャ)の護衛の役を放棄して逃亡(細川家記)。家康の裁判で助命され、後、松平忠吉、次いで徳川義直に仕える(重修譜)。
慶長十六年二月六日没、六十一歳という(寛永伝)。
生没年不詳。
信長の臣である林市助の家老。市助病弱により、名代として信長に奉公したという(諸家系図さん・河野系図伝)。
生没年不詳。良通(一鉄)の兄通明の子(稲葉家譜)。
元亀元年(1570)六月二十八日、姉川の戦いで奮戦(ほあん・稲葉家譜)天正八年(1580)閏三月、安土に屋敷地を賜っているから、信長の馬廻の身分であろう。(公記)。同九年十月五日、信長より知行を宛行われている(公記)。
同十一年四月、一揆の稲葉彦六が北信濃飯山の陣を一揆に囲まれた時、一族して出動、これを救った(公記)。
本能寺の変後の信孝と秀吉との対立の中で、国主信孝を離れて秀吉に与した(勢州記)。
天文十五年(1546)~慶長八年(1603)九月三日。
彦六、右京亮、郡上侍従。
安八郡曾根城主稲葉良通(一鉄)の長男。斎藤竜興に仕えていたが、父とともに、永禄十年(1567)八月頃信長に内応した(公記)。
同十二年六月七日、信長より父一鉄の本知方・当知行分等を宛行われているから、父より分領されたのであろう(稲葉文書)。また、同日付のもう一つの信長朱印状で、氏家・安藤と、河西所々の春秋諸段銭と夫銭とを三分の一ずつ分けるよう命じられている(稲葉文書)。この二つの朱印状の宛名は「稲葉彦六」だが、貞通を指すことはまちがいない。天正十年(1582)六月に至っても、彼は「稲葉彦六貞通」と署名している(「稲葉家譜」所収文書)。
だが、史料にもう一人の「稲葉彦六」がいることについて触れておきたい。「池田本」を見ると、元亀元年(1570)の時点で、貞通は「右京亮」と記され、「彦六」はその舎弟となっているのである。ただ、その弟「彦六」を系図類にある誰に比定すべきかは困難である。ともかく、「公記」「池田本」にその後しばしば登場する「彦六」は、貞通ではなく、その弟らしいのである。
父一鉄は、老齢に達していたが依然として第一戦で活躍。貞通は、天正元年まきのしま攻め、朝倉攻め。同二年長島攻め、同五年雑賀攻めと、諸所に転戦するが、すべて父と一緒の行動である(公記)。貞通が稲葉家の家督と曽根城を譲られたのは、同七年冬であるという(稲葉家譜)。同九年十月二日、信長より、前年追放された安藤守就の本領である河西城近辺の二千貫文の地を宛行われた(「稲葉家譜」所収文書)。
信長の死後は、実濃国主となった信孝に従わず、秀吉方に付く。同十一年一月、秀吉に従って伊勢峰城攻め。小牧陣の時も秀吉に従う(稲葉家譜)。
「太閤記」によると、同十三年七月十一日、秀吉の関白就任に際して任官したといい、「曽根侍従豊臣貞通」と書かれている。この記事に従い、貞通の侍従任官をこの時とする研究もある。
しかし、「稲葉家譜」に載った同十三年十月六日付の宣旨は子の典通宛てのものであり、貞通を従五位下侍に任じた宣旨の日付は同十六年一月六日である。どういうわけか子の典通の方が先に侍従になっていたのである。従って、同十三年頃から現れる「羽柴曽根侍従」とは、典通のことである。同十六年四月、貞通は郡上郡八幡城に移される。その後登場する「郡上侍従」は貞通である(稲葉家譜)。
同十八年の小田原陣に参陣。この時は信雄の指揮の下ににらやま城を攻めている(毛利家文書)。
朝鮮陣の時も、渡海して戦う(浅野家文書)。文禄三年(1594)春、伏見城の工事を分担。当時四万石という(当代記)。
慶長五年(1600)の戦役には西軍に属し、犬山城を救援。八月には典通とともに実濃口を防衛する(真田文書)。また、郡上八幡で、東軍の遠藤慶隆・金森可重と戦った(稲葉家譜)。しかし、その後、志を変じて東軍に内応する。
戦後、豊後うすきに移封され、五万六十余石。同八年九月三日京都にて没。五十八歳(稲葉家譜)。
?~慶長三年(1598)十月三日。
勘右衛門、兵庫頭。
良通(一鉄)の子。貞通の兄だが、庶子なので、別家となった。信長の晩年頃と思われる四月四日付の、堀秀政・長谷川秀一・菅屋長頼が皇大神宮おんし上部貞永に宛てた連署状を見ると、「稲勘右(重通)」は、訴訟について安心するよう、三人の上使の返事を上部に伝えている(伊勢古文書集)。稲葉宗家を離れて、信長馬廻だったようである。「稲葉家譜」によると、信長の下で一万五千石あるいは二万三千石の食邑を持っていたという。
天正十年(1582)四月五日、稲葉一族に混じって一揆に囲まれた信濃飯山城を救援。これが「公記」に載った唯一の事績である。
信長の死後は、父や弟貞通と行動を同じくし、しずケ岳の戦いの時、秀吉方として美濃口に着陣(岐阜県古文書類さん)。小牧陣の時も秀吉に従軍(秋田文書)。この頃、河内狭山郷内の地を加増させたという(戦国人名辞典)。
同十三年七月十三日、従五位下兵庫頭にしゅ任(歴名土代・天正記)。同年八月、三木氏滅亡後の飛騨の支配を一時的にゆだねられたか(宇野)。
九州陣、小田原陣にも従軍(当代記・伊達家文書)。その間の同十六年、父の死により美濃清水城主、一万二千石(重修譜)。
朝鮮陣の時は、名護屋に在陣した(太閤記)。文禄三年(1594)、伏見城普請を分担(当代記)。
晩年は、秀吉のおで衆(太閤記)。秀吉の死後間もない慶長三年(1598)十月三日に没した(稲葉家譜)。
生没年不詳。
稲葉良通(一鉄)の臣。元亀元年(1570)六月二十八日、姉川の戦いで奮戦(ほあん・浅井三代記)。天正元年(1573)八月の朝倉攻めにも従軍。朝倉義景の首級を得て、信長に持参したという(朝倉記)。
弘治元年(1555)~寛永五年(1628)六月八日。
庄右衛門。庵号は少庵。
良通(一鉄)の三男とも四男ともいう。父や兄貞通とともに信長に仕える。その後、信忠に仕えた様子で、天正九年(1581)十一月二十五日、二百五十九貫文のはい地を与えられている(稲葉家譜)。
信長・信忠の死後は、まず秀吉の馬廻。同十四年九月二十一日、秀吉よりはい地千八百七十五貫文を受けている(稲葉家譜)。
その後、兄貞通の臣となり、土井出雲守の養子にされたが、やがて貞通のもとを去り、稲葉道通の所に遊事。後、故あって、陸奥会津に配流された(重修譜)。死没は寛永五年(1628)六月八日という(稲葉家譜)。
「彦六」は、良通以来、貞通、典通と継いできた稲葉家嫡男の呼称であり、永禄十二年(1569)六月七日付、信長朱印状(稲葉文書)の宛名の「稲葉彦六」は明らかに貞通を指している。
しかし、「公記」「池田本」に載った「彦六」は、貞通でも典通でもない。「池田本」元亀元年(1570)五月六日条、近江守山にて一揆と戦った記事中には、貞通の「舎弟」とあるから、貞通の弟らしい。だが、諸系図に載った、貞通の弟の誰に該当するのかは不明である。
「公記」に載った「彦六」の事績を追うと、天正元年(1573)まきのしま攻め、朝倉攻め、同二年長島攻め、同三年越前攻め、同六年から七年にかけては、有岡攻めに参加している。
同十年、武田攻めに従軍。この時は他の稲葉一族と離れて、信忠の軍団に属していたらしい。四月五日、彼は森長可とともに北信濃を経略して、飯山に陣を張ったところを一揆勢に囲まれ、稲葉一族のとえんを得て、これを打ち破った。その後、他の稲葉一族は安土へ帰陣したのに対し、彦六のみは信忠本陣のある諏訪に戻っている(公記)。
こうして見ると、「彦六」の呼称が、典通に譲られる前に弟の一人に一時譲られていたように思われるが、文書の上では、天正十年六月に至っても「稲葉彦貞通」が見え(「稲葉家譜」所収文書)、少なくとも信長在世中は、「稲葉彦六」は貞通を指している。太田牛一が貞通の弟の一人(直政が最も有力)の名を誤記したものと結論ずけたい。
?~元亀二年(1571)五月二十七日。
八郎次郎、刑部丞。
「稲葉家譜」によると、良通の長男通勝の子。いずれも年次は不明だが、三通の文書が伝わっており、竜徳寺や真桑村等の百姓の保護に努めている姿が見られる(竜徳寺文書ほか)。そのうち、八月二十六日付の「竜徳寺文書」の署名は「稲葉八郎次郎良弘」、七月八日付の「堀部千氏文書」の署名は「稲葉刑部丞良弘」となっている。
元亀二年(1571)五月二十七日没という(稲葉家譜)。
永正十二年(1515)~天正十六年(1588)十一月十九日。
六郎、彦四郎、彦六、右京亮、伊予守。入道号は一鉄。斎号は似斎・以平斎・きょうけい斎。三品法印。いは良通のほかに、「通以」「通朝」「貞通」「長通」が伝わっている(稲葉家譜)。だが、普通は、いよりもむしろ、入道号の一鉄で知られている。
生没年不詳。
滝川一益の臣。天正六年(1578)九月三十日、一益の白舟上乗りにより、渡辺佐内・伊藤孫大夫とともに信長より黄金と服を賜ってる(公記)。
?~天正十年(1582)六月二日。
信長か信忠の馬廻であろう。本能寺の変の時、二条御所にて討死した(公記)。犬飼助三との関係は明らかでない。
生没年不詳。
柴田勝家の臣。天正三年(1575)八月、勝家に従い越前攻め(朝倉記)。
某年三月二十六日付書状で、織田そうの米を誤って徴収したため、柴田勝定より責められている(剣神社文書)。
天文二年(1533)~慶長九年(1604)九月十四日。
半平、半右衛門。
「重修譜」によると、阿倍大蔵の子。大蔵のもとを去ったぼうが、井上清宗に嫁して生んだ子という。佐久間信盛とともに天王寺砦に入って、大坂攻めに参加しているから、佐久間の与力であろう(重修譜)。
佐久間追放の天正九年(1581)一月であろうか、信長より家康への援兵として派遣され、大須賀康高に属して、遠江横須賀を守ったという(重修譜)。
慶長九年(1604)九月十四日、横須賀にて没。七十二歳という(重修譜)。
生没年不詳。
助左衛門尉。
近江野洲郡おちくぼの住人で、信長に仕えるという(寛永伝)。
天文十一年(1542)~寛永三年(1626)二月二十八日。
内匠助、内匠頭、三左衛門、次左衛門。
「重修譜」では、い「一時」、久左衛門の長男、兵介一俊(高就カ)の兄にしている。はじめは、犬山の織田信清に仕えていた。永禄元年(1558)七月十二日、浮野合戦で、岩倉軍と戦っている様子が「ほあん」に見える。当時はまだ信清の臣だったらしい。その後、信長に仕え、赤母衣衆追加の一人(高木文書)。選抜された時、十八歳であったと「寛永伝」にある。
天正三年(1575)三月二十五日の津田宗及茶会に名が見える(宗及記)。
同六年十二月、有岡攻めに従軍し、高槻城の番衆の一人(公記)。
本能寺の変の後、秀吉に仕え、同十三年九月一日、摂津太田郡栗生内で千石を宛行われる(古文書)。「重修譜」に、摂津太田、近江えち、河内河内、伊勢かわわの四郡の内で、二千七百三十石余を与えられるというのは、それより後のことであろう。秀吉の黄母衣衆に列したともいう(重修譜)。
文禄四年(1595)四月十八日、伏見の自邸に関白秀次の訪問を受け、呉服・太刀等を賜った(駒井日記)。この頃は秀吉おせ衆(太閤軍記)。
慶長五年(1600)の戦役では東軍に属し、九月十五日の戦闘にも参加。大坂両陣にも従軍。寛永三年(1626)二月二十八日武蔵にて没。八十五歳と伝わる(寛永伝)。
長子は、秀吉の近臣次左衛門一日である(寛永伝)。
生没年不詳。
犬山の士という(ほあん)。永禄元年(1558)七月十二日、浮野合戦で岩倉軍と戦ったことが「ほあん」に見える。
同十二年八月、大河内攻めに従軍。「さくきわ廻番衆」に名を連ねているから、信長の初期の馬廻であろう(公記)。
生没年不詳。
信長の近臣であろう。元亀元年(1570)四月、信長が越前へ遠征の時、島田秀満・佐藤三河守らとともに信長宿所(上京りんあんカ)の留守居を務め、二十九日に山科言継の来訪をうけた(言継)。
?~天正十年(1582)六月二日。
兵介。いは「高然」とも書く。
信長の代表的近習である猪子兵介だが、「公記」巻首に斎藤道三の家臣として早くもその名が見える。「重修譜」には、猪子久左衛門の二男に兵助を称したという。しかし、久左衛門は織田信清に仕え、最後犬山で戦死したとある。斎藤家臣猪子兵介 高就の父という図式は、これらの記述からでは成立しない。
信長に降った時については不明だが、永禄年間であることは間違いないであろう。元亀二年(1571)六月、逃亡中の高木貞久の臣たちのきよ明や、水谷新兵衛の抹殺を信長から命じられているから、この頃すでに近習として信長の信頼を得ていた様子である(猪子文書)。同年八月二十日、江北の余語・木本より退却の際、殿を務めた柴田勝家の様子を信長に報告したという(ほあん)。「武家事紀」には、この時の役割について「軍使」を務めたとある。
その後も軍の検使を務めることが多く、天正四年(1576)五月、河内天王寺、同七年四月、播磨三木表へ派遣されたのも、検使としての務めを命じられてのことである(公記)。
近習としてかなりの力を持っていたらしく、吉田兼和も彼に気を遣い、しばしばぞう品している(兼見)。同八年にも、豊さつ和睦の仲介後、近衛前久に対し自分の意思を伝えるなど、大きな役割を果たしている姿がのぞかれる(歴代亀鑑・後編さつ藩旧記雑録)。
同年十二月には、ふくずみ秀勝らとともに高天神攻めの家康の陣見舞いのために出張(家忠)。同九年三月二十五日には、矢部家定とともに山城勝竜寺城に入り、丹後に移封された長岡(細川)藤孝の旧知行分を点険した(公記)。
同年九月八日、信長より知行を宛行われる(公記)。「ほあん」では、何に拠ったか、この時の知行地を近江北郡としている。
この頃は、矢部家定と一緒の行動が多く、同年九月十日、二人で金蔵寺に臨時課役を免除(金蔵寺文書)、十一月四日には、一緒に禁中よりれん香を賜っている(御湯殿)。天正四、五年であろうか、三月二十八日付で、矢部と連名で、秀吉へ発した書状があるが、それによると、秀吉が某一件について、猪子・矢部の二人の信長側近に依頼したらしい(東文書)。兵介たちの隠然たる力がそこからもかんま見られるのである。
本能寺の変の時は、信忠とともに二条御所で戦い、討死した(公記)。「宇野」では京都で追腹とあるが、確かなことはわからない。
?~元亀二年(1571)八月二十八日。
いは「重朝」とされているが、正確なものはわからない。
摂津茨木城主。天文十四年(1545)八月二十六日、溝こう亀松丸に安堵状を発給した摂津の領主茨木長隆がいるが、同一人あるいは親族であろう(石漬水文書)。
はじめは三好長慶のかさ下であったが、永禄十一年(1568)の信長の入京に際して、これに降伏。翌年一月の三好三人衆の本ぼう寺攻めの時、将軍義昭を救援、桂川近辺にて三人衆の軍と戦った(公記)。
元亀元年(1570)八月、信長の野田・福島攻めにも、救援として出陣、中島天満森に着陣した(両家記)。翌二年八月二十八日、摂津郡山での戦いで、和田これ政とともに討死した(言継)。
永正十七年(1520)~文禄二年(1593)八月五日。
彦八郎、彦右衛門、大蔵卿法印。いは「兼員」「久秀」。斎号は昨夢斎。寿林とも号す。
和泉堺の商人。父については不明。近江高島郡今井出身とも、大和の今井荘出身ともいう(永島福太郎「今井氏の石碑名井系図」「茶道古典全集」解題)。
生没年不詳。
信忠に仕えていたらしく、天正九年(1581)五月、信忠より所領を宛行われている(土佐国つぼ簡集)。
後、秀吉に仕え馬廻。同十一年八月一日、秀吉より河内古市郡はく井村三百四十石を宛行われ、十八年九月七日には、近江の内にて百石を加増されている(土佐国つぼ簡集)慶長五年(1600)、関ケ原の戦いで没落した(戦国人名辞典)。
公家衆・連歌師らと親交があり、歌会等に列席している(時慶卿記)。
天文二十三年(1554)~寛永四年(1627)十二月。
弥八。
斎藤道三の臣に「今枝弥八」という人物があり、天文六年(1537)八月一日、はく間口での戦功を賞されているのをはじめ、道三よりしばしば書状を受けている(金沢市立図書館文書)。「加賀藩史稿」は、この人物を重直の父とする。
元亀元年(1570)の姉川の戦いおよび翌年の長島攻めの時、安藤守就の臣「今枝弥八」が信長軍にあって戦っている様子が、「うらあん」に見える。「加賀藩史稿」は、これを重直としている。
重直はその後信雄、次いで豊臣秀次に仕え、尾張で五千三百石を食む(分限帳・加賀藩史稿)。
秀次の死後、前田利家に仕え、寛永四年(1627)十二月没という(加賀藩史稿)。
生没年不詳。
美濃の士で斎藤氏に仕えた今枝氏の一族であろう。永禄十二年(1596)六月二日、信長より尾張日置郷、美濃すのまた内四十貫文の地を宛行われている(土佐国つぼ簡集残へん)。
?~天正十年(1582)六月二日。
信長の小こ姓(ほあん)。本能寺の変の時、信長のぼうらにあって討死した(公記)。
生没年不詳。
天正六年(1578)九月、伊勢大神宮に、近江浅井郡青名郷にある二段の田地を奇進している(勢州社家文書)。
?~永禄十二年(1569)四月十五日。
左近将監。
摂津高槻城主。永禄十一年(1568)十月三日、入京した信長に降り、来礼(言継)。しかし、高槻城は、この後、和田これ政に与えられるから、居城没収の処置がとらえたのであろう。
翌年一月、三好三人衆らの本ほう寺攻撃の時、三人衆方に寝返り、伊丹・池田の本ほう寺救援を妨害した(ほあん)。そして、結局、同年四月十五日、信長にまっさつされた(多聞院・両家記)。
年月は不明だが、摂津上牧の鳥丸光康知行分を押妨したことがある(鳥丸家文書)。
?~天正十年(1582)六月二日。
信長の中間衆。天正六年(1578)八月二十日、近江今掘などの地下人に、六角氏に加勢した事実がなかったことが判明した、ということを伝えている(日吉神社文書)。
同十年六月二日、本能寺で討死した中間衆「岩」がいるが、同一人かどうかは、明らかでない(公記)。
生没年不詳。
小兵衛。
菅谷長頼の臣。(天正九年 1581)一月一日、長頼に従って、平定成った能登へ行き、国衆の温井景隆・三宅長盛に早く出仕するよう促している(酒井文書)。一宮社(気多社)について担当したらしく、同年八月には、信長への礼を怠ったことを責めたり、社領違乱についての処理を指示したり、知行安堵を伝えたりしている。また、(同年)十月十三日、長頼の使として一宮惣中に遣わされ、同月二十八日、一宮社務分の自免田の年貢について、相違ない旨を伝えている(気多神社文書)。
?~天正元年(1573)八月二日。
主税助。三好政康・同長逸と三人合わせて「三好三人衆」と呼ばれる。
生没年不詳。
伊勢岩間党の一人。関盛信のかさ下である。
天正十一年(1583)一月、盛信父子が上洛した留守中謀反を起こし、滝川一益に味方する(勢州軍記)。だが、すぐに亀山城を攻められ、城将佐治新介は三月三日に開城した(兼見)。
岩間はめんされ、その後、一族をあげて秀吉のかさ下となった。同十二年、秀吉が信雄と対立する秀吉方に付き、三月、信雄方神戸与五郎の攻撃を亀山に受け、一族らわずか十三人で守り通したという(武家軍紀)。
生没年不詳。
長門守の子という(「美作古簡集」、矢吹正則考証)。
天正二年(1574)一月六日、信長より美濃白金・尾張下津・松原・松葉の内の欠所地四十五貫文を宛行われているのが、史料における初見である(美作古簡集)。尾張の士だから、翌年十一月、織田家督が信忠に譲られた時、信忠のかさ下になったものと思われる。
本能寺の変後は、尾張支配者となった信雄に仕えたらしく同十年七月、信雄より所領安堵を受けている(美作古簡集)。「分限帳」にある中郷内百五十貫知行の「岩屋十蔵」は、同一人であろう。
その後、播磨に移ったか、同十四年十二月十四日、勝茂(木下勝俊)より播磨で百二十石を宛行われている(美作古簡集)。
?~永禄四年(1561)六月?
信長の小姓(公記)永禄年間、赤母衣衆の一人に選抜される(高木文書)同三年(1560)五月、桶狭間の戦いに従軍(公記)。翌四年六月、小口の戦いで討死したという(公記)。「高野山過古帳」では、彼の没年月日を永禄四年九月十九日としているが、そのまま信じるわけには行かない。
生没年不詳。
根来寺の僧。天正八年(1580)二月二十八日、山崎へつき、信長に礼。馬と道服を与えられた(公記)。
生没年不詳。
紀伊守。
幕臣。足利義昭に仕える。永禄十二年(1569)九月、義昭の使として肥後の相良義陽に遣わされ、殿料を課している(相良家文書)。
その後、次第に義昭の信を失い、過酷に扱われるようになったという(公記)。それゆえ、義昭と信長との争いの中で義昭から離れたのであろうか。義昭追放後の天正元年(1573)十一月二十八日、信長より二百十石の買得分を安堵されている(五十川氏文書)。
?~天正十一年(1583)四月二十四日。
柴田勝家の臣。元は微しずの身であったが、勝家と同郷のよしみで召し出され、これ仕えて、二千石を与えられ、度々戦功を励ますという(太閤記)。
天正十一年(1583)四月二十四日、北荘落城に際し、末森殿(勝家の姉)母子を連れて城を脱出。だが、北荘炎上を見、二人を斬って自害したという(太閤記)。
?~天正二年(1574)一月二十四日。
備後守。
朝倉義景の臣。魚住氏は代々朝倉氏の一乗谷奉行人である。景固も、元亀二年(1571)五月二十六日、河合吉統・小泉吉道とともに、剣神社に年貢の進納を命じているのを初見として、一条谷奉行人としての活躍が多く見られる(剣神社文書)。
朝倉氏の部将としても、対信長の戦いにしばしば出陣。天正元年(1573)七月、近江丁野城の定番を勤める(朝倉記)。しかし、同年八月、信長の越前進攻を見て、嫡男彦三郎を敦賀に遣わして信長に降った(本願寺文書・朝倉記)。そして十一月、信長よりにゆう郡の支配権を与えられたという(朝倉記)。
しかし、翌年、富田長繁が守護代桂田長俊(前波吉継)を殺す。その後の一月二十四日、魚住父子も富田のために謀殺された(朝倉記)。
?~天正十年(1582)六月二日。
信長の小こ姓(ほあん)。本能寺の変の時、信長とともに討死した(公記)。魚住隼人正の親族であろう。
生没年不詳。
尾張春日井郡鹿田村の人。信長の古くからの馬廻。永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いに従軍。首級を信長に持参したことが「公記」に載っている。同十一年、入京の時、摂津池田の攻城戦で敢闘したが、負傷する(公記)。
その後は信長のはからにあって、取次ぎなどの任務に携わっていたらしい。天正三年(1575)八月から九月、越前へ下向した大乗院尋憲の世話役として、信長や大和守護原田(ばん)直政との間を仲介している(越前国相越記)。
同八年四月、木下祐久とともに信長の使として、加賀の柴田勝家軍の様子を見届けるため派遣され、帰って信長に復命。信長より褒美を与えられた(公記)。
本能寺の変後も生存。同十三年、秀吉が佐々成政を攻めた時、前田利久とともに金沢城の留守居を務めた。この時、九月十五日付で前田利家に宛てた書状中で、秀吉は、利久・隼人正について、「おいてのぶへん」と書いており、すでにかなりの年配だったようである(寸金雑録)。
?~慶長十四年(1609)二月十五日。
治兵衛、七郎兵衛、七郎左衛門、出羽守。号は安心。
直家の異母弟。坂崎出羽守直盛の父である。永禄十年(1567)、明禅寺合戦で直家とともに戦った後、翌年備前みの郡富山城城主となる(妙善寺合戦記・備前軍記)。天正六年(1578)、播磨上月城攻めに従軍。翌七年、備前辛川にて小早川軍と戦い、これを破った(備前軍記)。
直家の病没後、幼主秀家の後見役。直家の遺志を継いで、秀吉に従う。同十年四月二十五日、備中かんむり山城を攻略(萩藩かんえつ録)。
本能寺の変後、そのまま秀吉に従い、同十二年十月十五日の秀吉茶会にも、宇喜多家の代表として出席(宗及記・宗久書抜)。
文禄元年(1592)、朝鮮の役の時は、軍の総帥秀家の後見役として渡海。役後、分家の家督を嫡子左京亮詮家(直盛)に譲り、隠居して安心と号す。そして大坂に移住。(備前軍記ほか)
慶長三年(1598)、秀吉の形見として吉次の刀を受ける(太閤記)。関ケ原の戦い後、めんされたが、同十四年二月十五日に没したという(三宅正乗「宇喜多氏一族の略譜」)。
?~天正十年(1582)一月?
八郎、三郎右衛門尉。和泉守。
永禄五年(1562)?~天正九年(1581)二月二十一日。
与太郎。
忠家の子、あるいは春家の子という。直家の養子となり、上道郡沼城を預かる(妙善寺合戦記)。直家に従って備前・美作で活躍。天正七年(1579)頃から直家が病気がちになると、忠家とともにその名代として宇喜多軍を率いた(萩藩ばつえつ録・備前軍記)。同年十月三十日には、やはり直家の名代としてせきめんの礼のため、摂津古屋野の信忠陣を訪れた(公記)。
同九年二月、備前児島の麦飯山を占拠。しかし、毛利氏の将ほいだ元清に攻められ、二十一日、討死した(萩藩えつかつ録)。二十