木造 具康 (こずくり ともやす)
生没年不詳。
左衛門尉、左衛門佐、大膳大夫。いは「長正」とも。また慶長五年頃は「長忠」を名乗っている(金沢市立図書館文書)。
伊勢木造城主。具政の庶子。北畠具教の甥にあたる。
永禄十二年(1569)、父に従い、北畠氏に背いて信長に属す(勢州軍記)。その後、具政より家督を譲られ、木造城主。父は戸木に移った(勢州軍記)。
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生没年不詳。
左衛門尉、左衛門佐、大膳大夫。いは「長正」とも。また慶長五年頃は「長忠」を名乗っている(金沢市立図書館文書)。
伊勢木造城主。具政の庶子。北畠具教の甥にあたる。
永禄十二年(1569)、父に従い、北畠氏に背いて信長に属す(勢州軍記)。その後、具政より家督を譲られ、木造城主。父は戸木に移った(勢州軍記)。
?~天正十年(1582)?
藤兵衛。いは「政職」ともある。
播磨御着城主。永禄十二年(1569)八月、織田軍に御着城を攻撃されるが、これを防ぎきる(益田家ふ書)。
?~天正十七年(1589)?
喜三郎。いは他に「高安」。「定豊」とする本もある。後に戸賀十兵衛尉と改める。
六角氏の臣。永禄六年(1563)、六角義治に謀殺され、観音寺騒動のもとを作った後藤但馬守(賢豊)の二男という。六角氏とは、騒動により対立状態だったが、その後和睦して後藤氏の家督となった(武家事紀)。
?~天正七年(1579)五月。
与四郎。いは「元正」ともある。
美作三星城主。浦上氏のかさ下だが、美作の地に勢威を振るい、江見氏などを配下に置いていた。天正四年(1576)十月十二日、江見秀道に地を宛行ったり、同六年七月、仏正院に寺領を安堵したりしている(東作志・美作古簡集)。
その後、同五年八月に浦上氏の天神山城が宇喜多直家に陥され、美作の後藤氏の立場も危うくなると、江見氏を通じて信長へ働きかける。同年十月二十日付、江見氏を通じて信長へ働きかける。同年十月二十日付、江見為久宛て信長朱印状中で、信長より安土出頭を許されている(美作古簡集)。だが、実際に安土へ行ったかどうかは明らかではない。
次第に直家の圧ぱくがつのり、七年四月、ついに宇喜多軍に三星城を囲まれる。抵抗したが、五月落城、元政は自害したという(備前軍記)。
?~天正十年(1582)六月二日。
信長の小人。中間衆虎若の子。天正十年(1582)六月二日、本能寺にて討死した(公記)。
享禄四年(1531)~慶長十七年(1612)八月十四日。
民部。いは「家次」とも。
信長に仕えた鷹匠。鷹の道に鍛錬し、信長の命により名を「家鷹」と改めたという(寛永伝)。
信長の死後、秀吉・秀頼に仕え、慶長十七年(1612)八月十四日没、八月十四日没、八十二歳という(寛永伝)。
生没年不詳。
左馬進、左京亮。いは「秀綱」とも。
山城相楽郡狛郷を本拠とする土豪。元亀三年(1572)十一月、信長より狛郷の領知を安堵されている(古文書ざん)。
同年と思われる、十一月二十八日付の柴田勝家書状で、延命寺に対し違乱のないよう命じられている(斎藤献氏文書)。延命寺については、(天正元年 1573)一月十五日、信長より黒印状を受け、延命寺と家来四人を委任されている(古文書ざん)。
?~天正十年(1582)六月二日。
信長の馬廻であろうか。天正十年(1582)六月二日、二条御所にて防戦、討死したことが「天正記」に見える。
生没年不詳。
大和わにの人。「わにノ金蔵坊」と呼ばれる。信長に従っていたが、天正元年(1573)二月十日、背いて松永久秀に与した(どけん記)。その後の消息は不明。
生没年不詳。
尾張松葉にある所領を欠所とされ、天正二年(1574)一月六日、それを岩室小十蔵に与えられた(美作古簡集)。
?~永禄十二年(1569)九月八日。
信長馬廻か。永禄十二年(1569)八月の伊勢大河内攻めに従軍。九月八日、丹羽長秀に属して大河内城夜攻めを敢行、討死した(公記)。
?~天正十年(1582)六月二日。
「長竜」といういを伝える書もあるが、信用の限りではない。「竜福寺文書」には「斎藤新 利 」とある。
生没年不詳。
玄蕃じゅう、玄蕃助。
「重修譜」には道三の子、「勢州軍記」に稲葉一鉄の甥とある。一鉄の姉か妹が道三に嫁していることは「稲葉家譜」にも記されているから、両方正しいのかも知れない。
永禄年間には信長に降ったらしく、新五郎に加治田城の留守居を頼まれたりしている(堂洞軍記)。新五郎も同じく道三の子と思われる人物である。その後しばらく動静は明らかでないが、天正三年(1575)一月十一日、信長より方県郡福光郷一円、その他を宛行われている(南陽堂楠林氏文書)。
天文二十三年(1554)~慶長十五年(1610)八月四日。
次郎右衛門尉。
利基の子という。新川郡城尾城主(上杉家文書)。「重修譜」によれば、母は神保氏張の娘というが、年代的に疑問。妻は三木良頼の娘という。
「寛永伝」に、武田信玄よりの書状が載っているから武田氏の誘いも受けたのであろうが、天正五年(1577)の「上杉家中名字尽」(上杉家文書)に載っているのを見ると、大体は上杉氏のかさ下に属していたと思われる。
生没年不詳。
信利の一族か。はじめ上杉氏に仕えており、某年九月四日、上杉景勝よりの書状を受けている(最上記追加)。その後、信長に従ったらしい。天正九年(1581)二月、佐々成政が越中も一職支配権を委ねられるが、同月二十日、成政より新川郡内で三百俵を宛行われている(最上記追加)。
生没年不詳。
野々村正成の臣であろうか。天正十年(1582)二月に、信長は正成を倹使として雑賀へ派遣。この時、敵である千職坊が砦を捨てて逃れたが、六大夫がそれを追いかけ、討ち取った。その功により、同月八日、信長より小袖と馬とを賜った(公記)。
?~天正十年(1582)六月二日。
政尚の二男という(佐々系図)。「佐々系図」は悪質の書だが、政尚の子というのは正しいようである。父は元亀元年(1570)十一月二十六日、竪田の戦いで討死したという(公記・ほあんほか)。父の死後は彼が坂井家の家督となった。
「池田本」巻五(元亀三年)に載ったたかの城後巻きの人数の中に、「坂井右近子」という者がいるが、これが後の越中守であろう。年齢についてはあきらかではないが、この頃はまだ少年だったようである。
信忠が尾張・東美濃の士をかさ下に置いた信忠軍団を形成すると、それに所属する。天正二年(1574)の長島攻めでは、信忠の下で働いている(公記)。同六年十月四日、同じ信忠軍団の一員斎藤新五郎が、月岡野の戦いで上杉軍を破った後、毛利長秀・森長可・佐藤秀方とともに新五郎の加勢として派遣された(黄微古簡集)。同十年二月の武田攻めにも従軍。四月三日、生け捕りにされた飯羽間右衛門尉を引き渡され、これを成敗した(公記)。
同年六月二日、本能寺の変の時、二条御所で信忠とともに討死した(公記)。
生没年不詳。
織田信次の臣。角田新五とともに守山の「両長」。
弘治元年(1555)六月二十六日、主信次が誤って信長の弟秀孝を討殺せしめ、守山城を出はんした後、信長および信勝の軍に攻められるが、これを防いだ。しかし、その後、別心して織田安房守(秀俊カ)を引き入れ、落城させた(公記)。
弘治元年(1555)?~元亀元年(1570)六月二十八日。
いは「尚恒」ともあるが、確かではない。
政尚の長男(武家事紀)。永禄十一年(1568)九月、観音寺・みつくり・和田山城攻めに戦功。信長に褒されると同時に、義昭からも感状を受けたという(ほあん・武家事紀)。
元亀元年(1570)六月二十八日、姉川の戦いに従軍、討死した。十六歳という(ほあん・浅井三代記)。
生没年不詳。
「好斎一用」で通っている。信長の側近である。
(永禄十一年 1568)十二月十六日、松永久秀に対し今井宗久と武野新五郎との訴訟について報告(坪井鈴雄氏文書)。(同十二年)十一月四日、妙心寺領横地分名主百姓に対し、年貢の保管を命令(退蔵寺文書)。前者は木下秀吉・中川重政・和田惟政との連署、後者は佐久間信盛・松井友き・との連署である。信長上洛後は、秀吉・重政・信盛といった代表的部将もこうした奉行を務めていたのだが、それにしても、側近である好斎がそれに肩を並べる地位にいたことは注目されるべきである。
同年十一月十四日の山科言継への使、元亀元年(1570)七月三日以前、今井宗久へいくの銀山吹屋銭の納入の催促、いずれも武井夕庵と一緒の行動である(言継・宗久書)。
「言継」を見ると、元亀元年五月三日、信長を訪問した言継の取次ぎ、同月九日、勅使として訪れた言継に対し、信長の予定を伝えている。信長の秘書のような役割を勤めていたことが知られる。だが、これ以後は諸書に登場しない。死没したか隠居したのであろう。
?~天正二年(1574)九月二十九日。
織田信次の臣。家老の坂井喜左衛門の一族か。
弘治元年(1555)六月二十六日、信次が誤って信長の弟秀孝を射殺せしめ、守山城を出はんした後、老臣たちともに城に立籠もり、信長および信勝の軍の攻撃を防いだ(公記)。
信次が翌年しゃされ、織田一門衆としての地位に復すると、再びこれに仕えた様子である。
天正二年(1574)九月二十九日、伊勢長島で主信次が討死するが、「ほあん」「当代記」には、一緒に討死した者としてその名を載せている。
生没年不詳。
清洲城主織田彦五郎(広信)の老臣である。彦五郎は守護代、大膳亮は小守護代 又代として勢力を振るった(公記)。
新興の勢力織田信秀と対立。一時和睦したが、天文二十一年(1552)八月、海東郡の松葉城に籠もって信長に対抗。同月十六日のかやずの戦いで、信長軍に敗れた(公記)。
同二十三年七月十二日、清洲城内で謀反を起し、同居していた守護斯波義統をころす(公記)。その後、信長の叔父信光を清洲城に招き入れ、彦五郎と並べて守護代として立てた(公記)。
弘治元年(1555)四月二十日、信光は彦五郎を謀殺する。大膳亮は危うく清洲城を逃れ出、今川義元のもとへはんったという(公記)。それ以後の消息はわからない。
(元亀三年 1572)六月二十日付けの大徳寺納所宛て連署状、同日付けの蜂須賀正勝宛て書状(大徳寺文書)の発給人「坂大信秀」を、奥野高ひろ氏はこの坂井大膳亮に当てはめているようだが、それは無理であろう(信長文書)。
生没年不詳。文助あるいは文介。
信長の、というより織田家の奉行衆。むしろ尾張の奉行衆と言った方が適当かも知れない。
生没年不詳。
与右衛門尉。
斎藤氏の臣であったが、後、信長に仕える(ほあん)。永禄十二年(1569)一月四日、六条本こう寺が三好三人衆らに攻撃された時、高槻より本こう寺に入って、これと戦った(公記・丹羽家譜伝)。
その後、丹羽長秀に仕え、天正十一年(1583)のしずケ岳の戦いの時、長秀に従って舟で出陣。しずケ岳城に入城した(太閤記)。長秀が越前に移封の時、八千石を知行(丹羽歴代譜付録)。長秀の死後、その子長重に仕える。ばく臣ながら、慶長三年(1598)四月十四日、秀吉から一万石の領知判物を受けた(丹羽家略伝)。
同五年八月、動乱に際して、主長重が西軍に属したため前田氏と対立。加賀浅井なわてにて前田利長の軍を破った(武家事紀・老人雑話)。
?~慶長五年(1600)。
下総。法名浄清。
赤川三郎右衛門景弘の子で、信長に仕える。後、信長の命で、「坂井」と改姓するという者が「太閤記」中に見られるから、この記事は信じられるであろう。
本能寺の変の後であろう、信雄に仕える。天正十二年(1584)三月、僚友岡田重孝が信雄に殺された時、重孝の子よしあつに加勢して星崎城に籠城する。その後、退去して秀吉に仕え伊勢にて二千石を領す(太閤記・寛永伝)。
慶長五年のゆう乱の時、はい地内にて一揆が起こり、鎮圧のため出動したところ、矢に当たって討死した(寛永伝)。
永禄二年(1559)~?
文介(助)利貞の子。その初見は、「言継」永禄十二年(1569)七月二十六日条、山科言継より扇を贈呈されたことである。同年十一月十二日には、父の代理として岐阜に下向した言継と会見している(言継)。当時十一歳のはずだが、早くも表立った活動をしている。
元亀二年(1571)十二月十五日、また岐阜に下向してきた言継を他行した父の代わりに馳走する。さらに十七日、山口弥七郎らとともにこれをかい応した。当時十三歳と「言継」に記されている。
早くから頭角を現していた隼人だが、その後しばらくの事績は明らかでない。本能寺の変後は、父利貞とともに信雄に仕え、天正十一年(1583)八月十九日、日比野の内前野郷を宛行われている(坂井遺ぼう)。「分限帳」によると、日比野・小野にて百二十貫文の知行という。
以後、「坂井遺ほう」にも「坂井隼人」の名は現れない。その代わり、「伊三郎」「久三郎」「久左衛門」などが代々の清洲城主より宛行いを受けているから、この内の誰かが隼人と同一人なのかも知れない(坂井遺法)。
生没年不詳。
喜左衛門の子。父と同じく織田信次に仕える。
弘治元年(1555)六月二十六日、信次が信長の弟秀孝を誤って射殺せしめて守山城を出はんした後、父たちとともに城に籠もって信長・信勝の軍と戦う(公記)。
その後、信次に代わって守山城主になった織田安房守(秀俊カ)に仕え、ろう愛を受ける。それに不満の老臣角田新五郎が謀反を起こして安房を殺した(公記)。
?~元亀元年(1570)十一月二十六日。
右近尉、右近将監。いは「政重」ともある。
「張州府志」「尾張志」などに丹羽郡楽田村の人とあるが、「御湯殿」元亀元年(1570)一月三日条には「みののさかいうこん」と載っている。美濃出身で初め斎藤氏に仕えるが、信長に召し出されてこれに転仕するという、「武家事紀」や「太閤記」の説が正しいようである。だが、信長入京時には、すでに有力部将の一人になっているから、信長の臣となったのは、かなり早い時期であろう。
永禄十一年(1568)九月、信長の入京に従軍。入京後の二十六日、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成とともに勝竜寺城に石成友通を攻める(言継・公記ほか)。
?~天正十年(1582)六月二日。
信忠の馬廻か。天正十年(1582)六月二日、二条御所にて討死した(公記)。
?~元亀元年(1570)十一月二十六日。
永禄十一年(1568)二月、信長が北伊勢を制圧し、神戸家に三男信孝を養子として入れた時、岡本良勝とともに信孝に付属された(勢州軍記)。しかし、その後、神戸家を離れて、再び信長に直属。元亀元年(1570)十一月二十六日、竪田にて、坂井政尚らとともに朝倉・浅井の軍と戦って討死した(勢州四家記)。
永禄元年(1558)?~天正四年(1576)十一月二十五日。
兵庫頭、四位中将。
「勢州軍記」では具教の婿とある。
天正二年(1574)七月、信雄に従って、水軍の武者大将として長島攻めに参加した(公記)。
同四年十一月二十五日、北畠一族せい清の時、田丸城で遭害した。十九歳という(北畠御所討死法名)。
遺児亀寿(亀千代)は逃れ、大叔父北畠具親を頼って、この後しばらく策動している(坂内文書)。
生没年不詳。
与六郎。いは「政明」「盛明」とも伝わるが、文書で確かめられるのは、「家勝」である(長命寺文書)。
尾張五器所城主(寛永伝・断家譜)。信長に仕える。
永禄十二年(1569)か、十一月二十六日付で、長命寺惣中に対し、寄妙(信忠)の許可通り諸役を免除する旨を告げている(長命寺文書)。戦場に働く武将ではなく、政務を担当するそく僚の性格が強い。
天正五年(1577)八月、松永久秀・久通父子が再び信長に背いた時、その質子を家勝が預かっていたが、信長の命により京へ送る。質子は十二、三歳の男子二人であったが、親への遺言を書かず、家勝に礼状をしたため、六条河原で斬られたという(公記)。
同十年五月二十九日、信長最後の上洛の時、安土二の丸番衆の一人(公記)。本能寺の変後の消息は不明。
生没年不詳。
佐久間信盛の一族か。佐久間父子に従っていたが、天正八年(1580)八月、父子が追放された後、信長に召し出され、直臣となった(池田本)。
生没年不詳。
佐久間信盛の一族であろうが、関係については不明。天正三年(1575)十二月一日、同四年八月四日、同五年五月十二日、十月二十四日、同六年一月七日、同七年一月二十一日、いずれも津田宗及の茶会に出席している(宗及記)。同席の者は、若江三人衆・水野守隆ら。信盛を主将とする石山本願寺攻めの軍に参加していたものと思われる。
「ど憲記」にある、天正二年一月、福富秀勝・毛利長秀とともに多聞山城番手を務めた「佐久間才四郎」は、同一人であろうか。
生没年不詳。
信勝(信行)の老臣。信勝が末盛城を譲られた時、これに付属された。天文二十年(1551)三月の信秀の葬儀の時も、信勝にぐぶして参列している(公記)。
この次右衛門を右衛門尉信盛と同一人とする説もあるが、「公記」に二度登場するから誤記とは考えられず、別人であろう。
天文七年(1538)~慶長四年(1599)十一月二十三日。
左京亮。いは「信辰」とも伝わるが、文書で確かめられるのは「信直」である(円福寺文書)。ていはつ号は休斎。
信盛の弟。山崎城主という(張州雑志さ)永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いの時は、兄信盛とともに善昭寺の砦を守った(公記)。信長入京後の同十二年八月には、伊勢大河内城攻めに従軍(池田本)。
兄信盛や甥信栄は茶会に出席しているが、信直の名も、天正五年(1577)二月十日、同年十二月十一日の二度見える(宗及記)。同八年八月の佐久間父子追放の時は、無事ではなかったであろう。
だが、同十二年には信雄に召されていたらしく、前田与十郎とともに伊勢蟹江城を守備している。「寛永伝」によれば、その後、裏切った与十郎に城内で対抗、城に放火しようとして、城を出されたという。
後に関東入国後の家康に仕え、榊原康政の居城上野館林の留守居を勤める(寛永伝)。
慶長四年(1599)十一月二十三日、館林にて没、六十二歳という(重修譜)。
弘治二年(1556)~寛永八年(1631)四月二十七日。
甚九郎、駿河守。斎号不千斎。法名宗岩。
いは「信栄」のほか「定永」と自署した文書もあるが、一般にいう「正勝」に関しては、文書の裏付けがない。
?~天正九年(1581)七月二十四日。
半羽介、右衛門尉。法名定盛。他に斎号として夢斎が伝わる。初期の通称「半羽介」については、「田島氏文書」「伊勢古文書集」中に発給文書があるが、いずれも原本は伝わっていない。そのため、これを「出羽介」の誤りとする説がある。しかし、「尾張楯行記」に収めた「田島文書」中に、「ハバノスケ」とわざわざ振仮名を書いているところ見ると、写し違いではなさそうである。
永禄五年(1562)十月九日には、「右衛門尉」を称している(信長文書)。
?~永禄三年(1560)五月十八日。
大学助。いは「盛重」で知られているが、文書等の裏付けはない。
信秀の時代からの織田家の臣である。信長を離れ、信勝(信行)付きにされたらしく、天文二十年(1551)三月の信秀の葬儀の時は、信勝にぐぶしている(公記)。
その後、信長、信勝の対立の中で信長方にはんったのであろうか、弘治二年(1556)八月、信勝方柴田・林に備えて、名塚の砦に置かれている。そして、二十四日のいのうの戦いに参加。橋本十蔵を討取ったという(公記)。
永禄三年(1560)五月、今川軍の進攻に備え丸根砦に置かれたが、十八日、今川軍の攻撃を受け、落城、討死した(公記ほか)。信長の尾張一国時代の一方の大将であった。
娘は新庄直頼・佐久間盛政に嫁いだという(重修譜)。
生没年不詳。
久六郎、久右衛門尉。
佐久間盛政兄弟の父。妻は柴田勝家の姉である。尾張愛知郡に住し、後、犬山城主になると「重修譜」「断家譜」などにはあるが、「公記」などの良質史料には、その事績が伝わっていない。
良質の書ではないが「佐久間軍記」には、弘治二年(1556)八月のいのうの戦い、永禄十一年(1568)九月のみのくり城攻め、勝竜寺城攻め、元亀元年(1570)九月の野田・福島城攻めに参加した旨の記載がある。だが、他史料では、このうちみつくり城攻撃について「ほあん」の載っているのみである。
その後、佐久間信盛の軍団に属したのであろうか。「当代記」の天正四年(1576)五月三日条、佐久間信盛の軍団に属したのであろうか。「当代記」の天正四年(1576)五月三日条、佐久間信栄(信盛の子)らが天王寺城で本願寺の一揆勢と戦っている中に、「佐久間久右衛門」の名が見られる。
天文二十三年(1554)?~天正十一年(1583)五月十二日。
理助、玄蕃助。
尾張五器所の佐久間氏。山崎の佐久間信盛らと祖先は同じと思われるが、どのあたりから分かれたのかは明らかでない。父は盛次、母は柴田勝家の姉。その縁で外叔父勝家とは、あたかも父子関係のような密接なはがりをもって活躍する。
生没年不詳。
信長の馬廻であろう。永禄三年(1560)五月十九日、桶狭間の戦いで功(公記)。
同十二年八月、伊勢大河内攻めの時、「尺限廻番衆」を務めた(公記)。
生没年不詳。
丹波竹野神主家。天正三年(1575)八月、一色義道に従って、船で越前攻めに参加している(公記・ほあん)。
生没年不詳。
平右衛門尉。
白山神社おしの家。その一方、朝倉氏に仕える。永禄八年(1565)七月十三日に長谷川七郎衛門尉らより書を受け、白山参しの時は桜井坊を宿坊とする、という契約を成している(桜井文書)。また、同八年七月十三日には、長谷川らより、道者に遺乱しないことを約束されている(桜井文書)。
生没年不詳。
信長の奉行衆。坂井利貞・河野氏吉・山口太郎兵衛と同じく、尾張に土着した奉行。この四人は、天正二年(1574)閏十一月二十五日、信長より尾張国中の道路・橋・水道の整備を命じられている(坂井遺ほう)。この仕事は翌年二月に完成した(公記)。同三年十月八日、四人はまた信長より、尾張国中の橋と道並木の建設を命じられている(坂井遺ほう)。
?~天正十年(1582)六月二日。
姓は「佐々川」とも書く。信忠の馬廻か。天正十年(1582)六月二日、二条御所にて討死した(公記・天正記)。
生没年不詳。
天正元年(1573)十月八日、信長より本知七石を安堵されている(称名寺文書)。
生没年不詳。
神戸四百八十人衆の大将の一人。元亀二年(1571)一月、所領を安堵され、信孝に従った(神戸録・勢州兵乱記)。