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2007年11月 アーカイブ

2007年11月01日

蜂須賀 家政 (はちすか いえまさ)

永禄元年(1558)~寛永十五年(1638)十二月三十日。

小六、彦右衛門、阿波守。致仕号逢庵、宗一。

正勝の子。信長に仕える。父正勝とともに秀吉に属し、秀吉が播磨方面に派遣されるとこれに従う。天正八年(1580)六月五日、しそ郡の宇野民部を荒木重竪とともに追撃した時、敵を大いに打ち破り、高名を得た(公記)。

秀吉の進攻が山陰方面まで伸びると、その方面でも活躍。孤立した味方、南条元続のほうき羽衣石城に兵糧を搬入することに成功する(蜂須賀彦右衛門覚書・寛永伝)。同九年十一月には、荒木重竪とともにほうきに出陣してきた吉川軍の押さえとして置かれ、敵陣馬之山近辺を放火した(公記・太閤記)。このほうきでの活躍に対して、「(信長が)御感候」と「池田本」にある。

同十年、本能寺の変により東上する秀吉に従い、山崎の戦いに参加 しずケ岳の戦いにも従軍。同十二年三月には岸和田城を救援して一揆軍を破り、播磨佐用郡内にて三千石を与えられた(蜂須賀氏家譜)。

同十三年、四国討伐に従軍。平定後の閏八月、阿波一国十七万三千石、徳島城主(蜂須賀氏家譜)。だが、まだ父正勝か。同十四年一月二日、従五位下阿波守にしゃ任(蜂須賀氏家譜)。この年五月に正勝が没し、家を継ぐ。

同十五年の九州陣の時は、すでに前年十一月のうちに豊後へ派遣されている。九州では、肥後の一揆鎮圧後の十六年四月から五月にかけて、検地を行っている(吉川家文書)。

同十八年、小田原陣に従軍。韮山城攻めに参加(伊達家文書・毛利家文書)。文禄元年(1592)、名護屋在陣。渡海して軍功をあげた(太閤記・寛永伝)。

慶長五年(1600)の戦乱の時は西軍に属し、八月、兵二千を率いて北国口を防衛(真田文書)。しかし、子至鎮が東軍だったので、敗戦後致仕のみで済んだ。落飾して蓬庵と号す(蜂須賀氏家譜)。

寛永十五年(1638)十二月晦日没、八十一歳(蜂須賀氏家譜)。

蜂須賀 正勝 (はちすか まさかつ)

大永六年(1526)~天正十四年(1586)五月二十二日。

小六、彦右衛門、修理大夫。

父は正利と「蜂須賀氏家譜」にあるが、どこまで信用できるかわからない。尾張海東郡蜂須賀村の土豪である。はじめ犬山城主織田信清、次いで岩倉城主織田信賢、その後、斎藤道三に属し、道三と義竜との戦いに加わったという(蜂須賀彦右衛門覚書・寛永伝)。

「寛永伝」によれば、信長に仕えたのは永禄三年(1560)。すぐに桶狭間の戦いに参加し、功をあげたという。だが、「太閤記」には、同九年九月、秀吉の画策によって味方になり、墨俣近辺を夜討ちして、信長に五十貫の賞を賜ったとある。「武功夜話」には「蜂須賀党」と呼ばれる独立した集団を作っていたとあるが、このあたりが真実に近いのかも知れない。

蜂須賀 正元 (はちすか まさもと)

?~元亀二年(1571)五月。

七内。

正勝の弟。元亀二年(1571)五月、兄とともに伊勢長島攻めに従軍。十六日の退却の時であろう、一揆軍と戦って討死した(蜂須賀彦右衛門覚書・重修譜)。

蜂須賀 また十郎 (はちすか またじゅうろう)

生没年不詳。

「太閤記」に載った人物だが、尾張の土豪で野伏とあるから、正勝の一族であろう。永禄九年(1566)頃、秀吉が彼を味方に付けるため画策したという。

蜂屋 般若介 (はちや はんにゃのすけ)

生没年不詳。

信長の初期の臣。天文二十二年(1553)四月十七日の赤塚での戦いに、足軽衆として従軍している(公記)。

蜂屋 栄勝 (はちや よしかつ)

?~弘治二年(1556)八月二十四日。

市左衛門。初名「頼年」。

無津志村の出身で、信長に仕え、弘治二年(1556)の稲生の戦いに従軍して討死したという(寛永伝)。

蜂屋 頼隆 (はちや よりたか)

?~天正十七年(1589)九月二十五日。

兵庫頭、出羽守。侍従。

服部 一忠 (はっとり かずただ)

?~文禄四年(1595)七月。

小平太、うぬめのしょう。いは他に「春安」。「一忠」「春安」、どちらも文書で確認できる。

尾張津島村の人とも、丹羽郡大赤見村の人ともいう(尾張志)。信長に仕え、馬廻。

永禄三年(1560)五月十九日の桶狭間の戦いの時、今川義元に肉薄して負傷する。義元の首級は毛利良勝が得た(公記)。このような顕著な手柄を立てながら、その後信長に重用された形跡はなく、事績も伝わっていない。

本能寺の変後は秀吉に仕え、黄母衣衆になる(太閤記)。天正十二年(1584)、小牧陣に従軍。尾張二重堀撤退の時、敢闘した(武家事紀)。

同十三年七月十三日、従五位下采女正にしゃ任(張州雑志)。同十八年、小田原陣に従軍(伊達家文書)。同十九年加増され、伊勢一志郡にて三万五千石、松坂城主(勢陽五鈴遺響ほか)。尾張・北伊勢支配者の秀次に付属される。この年から文禄三年(1594)にかけて、多数の寄進状等が見られる(浄眼寺文書ほか)。

文禄元年、名護屋在陣。後、渡海して京城へ出動する(太閤記)。

その後帰朝。同四年七月、秀次事件に連座ということで、上杉景勝に預けられ、切腹させられた(太閤記ほか)。

服部 小藤太 (はっとり ことうた)

?~天正十年(1582)六月二日。

信長の馬廻であろう。永禄九年(1566)十一月、信長より判物を受け、新儀の諸役や諸棟別銭を免除されている(張州雑志さ)。

その後しばらく事績は伝わらないが、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の時、二条御所で信忠に殉じた(公記)。

後に信雄に仕えた、同名「服部小藤太」は子であろう(分限帳)。

服部 権大夫 (はっとり ごんだゆう)

生没年不詳。

海西郡荷之上村の人。信長に反抗した服部左京進の一族か。信長に仕え、後、家康に仕えるという(尾張志)。

服部 平左衛門 (はっとり へいざえもん)

生没年不詳。

津島の人。永禄四年(1561)五月十四日、信長に従って森部の戦いに参加。敵の長井甲斐守を討ち取った(公記)。

「張州雑志さ」所収の六月二日付文書の発給人に「服部平左衛門康信」という人物がいるが、文書の年次が明らかでないので、同一人かどうかはわからない。

服部 弥五八 (はっとり やごはち)

生没年不詳。「ほあん」の天正六年(1578)七月、播磨志方城攻めに従事する織田軍の中にその名が見える。他の史料には見当たらない。

服部 弥六郎 (はっとり やろくろう)

生没年不詳。

天文二十二年(1553)十一月二十二日、信長より買得地の権利を保障されている(信長文書)。

服部 六兵衛 (はっとり ろくべえ)

?~天正十年(1582)六月十八日、山科言継より香れい散一包を贈られている(言継)。

同十年六月二日、二条御所にて討死した(公記)。

花井 右衛門尉兵衛 (はない うえもんのじょうびょうえ)

生没年不詳。

天文二十四年(1555)二月五日、一雲軒とともに、信長より、尾張星崎・根土の今川方へ寝返った者の所領を欠所とするので、調査するよう命じられている(徳川義親氏文書)。

「分限帳」に、二百貫文を知行して信雄に仕える「花井右衛門」が載っているが、本人かあるいは子であろう。

花井 勘八郎 (はない かんぱちろう)

生没年不詳。

尾張知多郡堀ノ内(寺本)城主。播磨守の子で、佐治八郎信方の妹婿という(尾張志・知多市誌)。

花井 田右衛門 (はない でんえもん)

生没年不詳。

信長の臣。奉行衆か。元亀元年(1570)四月三日、信長の使として、禁裏に米五十石を献上した(継そう記)。

2007年11月02日

花井 三河守 (はない みかわのかみ)

?~永禄五年(1562)二月二十五日。

尾張春日井郡の人で星崎城主というが、知多郡の花井氏との血縁関係については明らかではない。娘は沢井雄重の妻という(木曾川町史)。天文二十四年(1555)十月一日、信長より四カ所、都合二百七十八貫文の地を宛行われた(妙心寺光国院文書)。

永禄五年(1562)二月二十五日没(高野山過去帳)。

馬場 孫次郎 (ばば まごじろう)

生没年不詳。

竪田衆の一人。元亀元年(1570)十一月、同じ竪田衆の猪飼野昇貞・居初また次郎とともに、坂井政尚を介して信長に降った(公記)。

その直後の同月二十六日、竪田で浅井・朝倉軍との戦闘があり、「ほあん」「浅井三代記」には、坂井と一緒に討死したように書かれているが、誤りらしい。同三年七月二十四日、明智光秀の指揮で、湖岸の一揆を舟で攻撃した軍の中にも「馬場孫次郎」が見える(公記)。

祝 重正 (はふり しげまさ)

生没年不詳。

弥三郎。「重正」は文書で確かめられる(斎藤報恩博物館文書)。「加藤喜左衛門文書」(「張州雑志さ」所収)にある十二月十九日付の文書の発給者「祝弥三郎定勝」が同一人かどうかについては不明。

信長の側近。古くからの家臣で、「公記」巻首に載った、天文年間と思われる盆踊りの記事中に名が見える。

浜田 与右衛門 (はまだ よえもん)

生没年不詳。

伊勢北方諸家の一(勢州軍記)。信雄に属す。天正十二年(1584)五月二日、小牧陣に際し、加賀井城の加勢として入れ置かれた(太閤記)。

林 市助 (はやし いちすけ)

生没年不詳。

新次郎の子、母は佐渡守通勝(秀貞)の娘と「諸家系図ざん」「越智姓系図」にある。だが、新次郎は秀貞の子ともいわれ、このあたりは不明である。

天正元年(1573)十月二十五日、父の死に伴い家督を継いだが、病気がちのため、家老の牧村利貞が代理として信長の命を執行したという(諸家系図ざん)。信用のおける史料には、その名はない。

林 員清 (はやし かずきよ)

?~天正三年(1575)九月二日。

与次左衛門尉。高島郡打下の土豪。竪田衆と同じく琵琶湖の水軍を握っていた様子である。地縁から考えて、おそらく浅井氏に属していたものと思われる。信長上洛後幾許もなくこれに従ったと思われるが、高島郡内にはまだ朝倉氏の勢力が残っており、不安定な状態だったであろう。

林 高兵衛 (はやし こうべえ)

生没年不詳。

信長の奉行衆。天正七年(1579)現在、武田佐吉・長坂助一とともに山城の代官を勤めていた(公記)。同五年頃であろう、五月十四日付で、信長側近堀秀政より、三人の代官がはく綱吉領を押領したことをとがめられた書状がある(小林文書)。

同七年十二月十二日、武田・長坂とともに、石清水八幡宮造営を命じられ、翌年竣工。五月二十六日、せいかん宮を挙行した(公記)。

林 新次郎 (はやし しんじろう)

?~天正元年(1573)十月二十五日。

新三郎とも。系図には「通政」「光時」のいが用いられているが、信用できない。

林 信勝 (はやし のぶかつ)

生没年不詳。

源左衛門。

林秀貞の一族か。早期の信長の奉行衆らしい。天文二十一年(1552)二月二十一日、林頼安・角田勝頼とともに命を受けて、熱田の加藤全はんの被官改めを行った(加藤文書)。

林 秀貞 (はやし ひでさだ)

生没年不詳。

新五郎、佐渡守。いは「通勝」として広く知られているが、「言継」天文二年(1533)七月二十七日条に「林新五郎秀貞」、十一月五日付の「尊経閣文庫文書」に「林佐渡守秀貞」とある通り、「秀貞」が正しい。

2007年11月05日

林 美作守 (はやし みまさかのかみ)

?~弘治二年(1556)八月二十四日。

秀貞の弟。信長に仕えたが、天文二十三年(1554)、信長の行動に不満で、兄とともに本拠の荒子に引退するという(公記)。

弘治二年(1556)、柴田勝家と語らい信長の弟信勝(信行)を立てようとし、一度は信長暗殺を計画したが、これは秀貞に止められた(公記)。

八月二十四日、勝家とともにいのうで信長の軍と戦い、敗死。信長自ら美作守を討取ったという(公記)。この時信長に逆らった者のうち、美作守はこうして死んだが、秀貞と勝家は戦後しょされて、以後信長の老臣として活躍した。

原 長頼 (はら ながより)

?~慶長五年(1600)十月十三日。

九兵衛尉、彦次郎、隠岐守。いは「政茂」「信政」「房親」「たね房」「可房」「高豊」「勝たね」「勝根」といろいろ伝わっている。

美濃土岐氏の流れで、頼房の子という。本巣郡花木城主と伝わる(美濃明細記)。はじめ斎藤氏、後、信長に属す。

信長に属してしばらくの経歴についてはあきらかではない。その活躍が見られるのは天正三年(1575)になってからである。この年八月の越前一向一揆討伐戦で、長頼は金森長近とともに濃州口から越前に侵入、一揆軍と戦った(公記)。戦後、柴田勝家に越前八郡が与えられた時、大野郡の三分の一を与えられ、勝山城主。勝家の与力となる(公記・武家事紀ほか)。

大野郡に対しては、戦いの前の天正三年六月六日付で、池田荘に忠節を促した信長朱印状に副状を発しており、征服前にすでに結び付きがあったらしい(誠昭寺文書)。郡三分の一の支配者になってからは、同年十二月、郡中のたん治座に特権を与えるなどの活躍が見られる(てっぽうや文書)。この当時は「政茂」(洪泉寺文書ほか)。

原田 与助 (はらだ よすけ)

生没年不詳。

佐久間信盛の与力。永禄十一年(1568)九月、信長の上洛戦に従軍。十二日、信盛に従って近江みつくり城を攻撃した(ほあん)。

天正四年(1576)十二月三十日と同五年五月二十五日の二回、津田宗及の茶会に出席しているが、いずれも同じ信盛の与力島信重と一緒である(宗及記)。

ばん 小七郎 (ばん こしちろう)

?~天正四年(1576)五月三日。

ばん(原田)直政の臣。天正三年(1575)三月、直政が大和守護に補されると、直政の代官の形で、直政の本拠山城まきのしまを拠点として、南山城・大和の国衆を支配した(多聞記)。

しばしば多聞院英俊らより贈品を受け、訴訟についても受け付けている(多聞院)。

同四年五月三日、直政に従って大坂の兵と摂津三津寺に戦い、敗戦の中で討死した(公記)。

伴 十左衛門 (ばん じゅうざえもん)

生没年不詳。

「言継」天文二年(1533)七月条に見える「伴九郎兵衛兼久」の一族であろうか。

信長の馬廻か。永禄三年(1560)五月、今川義元の進攻に備えて水野たてわきらとともに丹下の砦に入れ置かれた(公記)。

伴 太郎左衛門 (ばん たろうざえもん)

?~天正十年(1582)六月二日。

信長の近臣。十左衛門の子か一族であろう。天正十年(1582)六月二日、本能寺にて討死した(公記)。

ばん 伝三郎 (ばん でんざぶろう)

?~天正十年(1582)六月二日。

ばん(原田)直政の一族かも知れないが、直政とは離れて行動している。

天正三年(1575)信忠の美濃岩村城攻めに参加。十一月二十一日、塚本小大膳が秋山信友の降参を仲介した時、目付としてこれに付けられた(公記)。

同十年六月二日、二条御所にて討死した(公記)。子は信雄に仕え、三十貫を知行している(分限帳)。

ばん 直政 (ばん なおまさ)

?~天正四年(1576)五月三日。

九郎左衛門尉。めい姓、任官されて「原田備中守」。いは初め「正勝」。そのほか「重友」が「重修譜」に載っているが、文書では確かめられない。

姓の「ばん」は「重修譜」では「はなわ」としているが、「年代記」「多聞院」に「ハン」、「言継」に「伴」とあるから、「ばん」と読むのが正しいのであろう。

伴 盛兼 (ばん もりかね)

天文十六年(1547)~天正十二年(1584)四月九日。

五郎兵衛、若狭守。

信長に属し、伊勢亀山城に住す。本能寺の変後、家康の伊賀越えに協力(重修譜)。

その後家康に仕え、六百貫の采配を賜ったが、天正十二年(1584)四月九日、長久手の戦いで戦死、三十八歳という(重修譜)。

ばん 安弘 (ばん やすひろ)

?~天正四年(1576)五月三日。

喜三郎。

直政の一族であろう。はじめ、直政と並んで信長の馬廻。元亀元年(1570)六月二十二日、小谷より退却の信長軍の殿軍を務めた佐々成政に協力した(ほあん)。

(天正元年 1573)十一月六日以前、越前西福寺より欠所処分に対する訴えをされ、これを滝川一益に打ちんしている(西福寺文書)。

天正二年五月、直政が南山城の守護に任じられると、これに従う。(同年)十二月四日、南山城の土豪はく綱吉に、神童子村の本知の安堵を確認している(小林文書)。

翌三年三月に、直政は大和守護を兼任する。安弘は、直政の代理の立場で、長柄城の見回りを行うなどして、大和・南山城で力を振るい、多聞院英俊からも贈品を受けている(多聞院)。

津田宗及の茶会にも、二度その名が見える。

天正元年十二月一日の会には、信長馬廻である松岡九郎次郎と相伴している(宗及記)。その後直政の家臣になったというわけでなく、信長の直臣の身分のままで直政に付属されていたのではないかと思われる。

同四年四月、直政に従って大坂攻めに参加。五月三日の戦いで、直政とともに討死した(公記・多聞院)。

番頭 大炊頭 (ばんがしら おおいのかみ)

生没年不詳。

大炊介。いは「義元」と伝わる。

もと三好氏の臣。永禄八年(1565)五月の将軍義輝しき逆に加わったが、義昭上洛後はこれに従い、兄の仇であるのにかかわらず重んじられる(細川家記)。

天正元年(1573)七月、義昭方として、石成友通とともに淀城に籠って信長に対抗。しかし、羽柴秀吉の誘いに乗って寝返り、淀城は落城。石成は討たれた(公記)。

疋田 助右衛門 (ひきた すけえもん)

生没年不詳。

神戸四百八十人衆の大将の一人。元亀二年(1571)一月、所領を安堵され、新たに神戸氏の家督となった信考に仕えた(神戸録・勢州四家記)。

樋口 直房 (ひぐち なおふさ)

?~天正二年(1574)八月。

三郎兵衛尉。

近江坂田郡の人。郡内の豪族堀氏の家老。同郡長比城に居す。堀氏は浅井氏に属していたので、直房もこれに従う。永禄年間、主堀遠江守が没し、幼少の秀村が跡を継ぐと、家老として堀家の実権を握る。

彦一 (ひこいち)

?~天正十年(1582)六月二日。

信長の中間衆。天正十年(1582)六月二日、本能寺にて討死した(公記)。

久松 定員 (ひさまつ さだかず)

?~天正五年(1577)七月十九日?

弥九郎。

俊勝の長男。尾張知多郡阿古居荘を領し、信長に仕える(重修譜)。

天正三年(四年以後の誤り)、佐久間信盛とともに天王寺にあり、と「重修譜」にあるが信盛の与力としてその軍団に属し、大坂攻めに加わったのであろう。

しかし、その前の同三年(1575)十二月に起こった水野信元抹殺の事件に連座した罪ということで、同五年七月十九日、信長の命により、大坂の陣中で自害させられた(張州雑志さ・重修譜)。「記年録」には、信元事件の直後の死としている。だが、大坂の陣中でというのが確かならば、同四年以降のことである。

土方 雄良 (ひじかた かつよし)

天文二十二年(1553)~慶長十三年(1608)十一月十二日。

彦三郎、彦左衛門、勘兵衛、河内守。いは後に「雄久」。

信治の子(伊勢こ野土方家譜)。「公記」には、弘治二年(1556)四月二十日、長良合戦の援軍として討死した者の中に「土方彦三郎」が記されている。これが父の信治であろう。

2007年11月06日

土方 次郎兵衛 (ひじかた じろうべえ)

?~天正十年(1582)六月二日。

尾張衆として信忠に仕える。天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の時、信忠に従って京にあったが、柳原に居て、二条御所での戦闘に間に合わず、信忠らの死を聞き、追腹を切ったという(公記)。

土方 信治 (ひじかた のぶはる)

天文五年(1536)~弘治二年(1556)四月二十日?

彦三郎、刑部少輔。

信長の臣。弘治二年(1556)四月二十日、斎藤道三・義竜父子が長良川で戦った時、信長の道三救援に従軍し、義竜軍と戦って討死した「土方彦三郎」が「公記」にあるが、これは「伊勢こ野土方家譜」にある土方雄良(雄久)の父信治と同一人であろう。「伊勢こ野土方家譜」には二十一歳とある。ただし、同書では、その戦死を、同年八月二十四日のいのうの戦いの時としている。

ひし屋 (ひしや)

生没年不詳。

近江の相撲取り。天正六年(1578)八月十五日、安土での相撲会に参加。よい相撲を取り、信長より百石および私宅を賜った(公記)。

その後信長の臣となり、同九年二月二十八日の馬揃えの時、「御長刀持」を務めている(公記)。

肥田 玄蕃じょう (ひだ げんばのじょう)

生没年不詳。

いは「直勝」「忠政」と伝わる。

土岐氏の一族で、美濃米田城主。妻は金森長近の娘という(重修譜)。

いつのことか不明だが、武田信玄との戦いの時、森可成とともに先駆けを務めると「公記」にある。森可成の与力として付属されていたのであろうか。元亀元年(1570)九月、可成や織田信治とともに、信長の南方陣の間、字佐山城を守る。二十日、朝倉・浅井軍の攻撃を受けて可成・信治は敗死したが、玄蕃じゅうは武藤五郎右衛門・肥田彦右衛門とともに字佐山城を死守した(ほあんほか)。

本能寺の変後であろう、秀吉に属すというが(寛永伝)、その後の事績については、あきらかでない。

十二月十三日付の美濃善恵寺宛ての奇進状があるが、これには、「肥田玄蕃」と署名されている(善恵寺文書)。

肥田 彦左衛門 (ひだ ひこざえもん)

生没年不詳。

玄蕃じゅうの一族。元亀元年(1570)九月、信長の南方陣の最中、一族の玄蕃じゅう・武藤五郎右衛門とともに字佐山城を守る。二十日、朝倉・浅井軍に襲われ、可成・織田信治らは討死したが、城を堅固に守備し、朝倉・浅井軍の攻撃に耐えた(公記)。

日近 定直 (ひちか さだなお)

生没年不詳。

信長に属し、弘治二年(1556)五月二十四日、今川方の栗生将監を三河奉梨子城に攻めたが、敗北した(伊藤本文書・奥平家譜)。

尾藤 源内 (びとう げんない)

?~元亀元年(1570)九月二十日。

元亀元年(1570)九月二十日、森可成に従い、字佐山城外にて朝倉・浅井軍と戦い、討死した(公記)。秀吉の家臣尾藤知宣の父である。