蜂須賀 家政 (はちすか いえまさ)
永禄元年(1558)~寛永十五年(1638)十二月三十日。
小六、彦右衛門、阿波守。致仕号逢庵、宗一。
正勝の子。信長に仕える。父正勝とともに秀吉に属し、秀吉が播磨方面に派遣されるとこれに従う。天正八年(1580)六月五日、しそ郡の宇野民部を荒木重竪とともに追撃した時、敵を大いに打ち破り、高名を得た(公記)。
秀吉の進攻が山陰方面まで伸びると、その方面でも活躍。孤立した味方、南条元続のほうき羽衣石城に兵糧を搬入することに成功する(蜂須賀彦右衛門覚書・寛永伝)。同九年十一月には、荒木重竪とともにほうきに出陣してきた吉川軍の押さえとして置かれ、敵陣馬之山近辺を放火した(公記・太閤記)。このほうきでの活躍に対して、「(信長が)御感候」と「池田本」にある。
同十年、本能寺の変により東上する秀吉に従い、山崎の戦いに参加 しずケ岳の戦いにも従軍。同十二年三月には岸和田城を救援して一揆軍を破り、播磨佐用郡内にて三千石を与えられた(蜂須賀氏家譜)。
同十三年、四国討伐に従軍。平定後の閏八月、阿波一国十七万三千石、徳島城主(蜂須賀氏家譜)。だが、まだ父正勝か。同十四年一月二日、従五位下阿波守にしゃ任(蜂須賀氏家譜)。この年五月に正勝が没し、家を継ぐ。
同十五年の九州陣の時は、すでに前年十一月のうちに豊後へ派遣されている。九州では、肥後の一揆鎮圧後の十六年四月から五月にかけて、検地を行っている(吉川家文書)。
同十八年、小田原陣に従軍。韮山城攻めに参加(伊達家文書・毛利家文書)。文禄元年(1592)、名護屋在陣。渡海して軍功をあげた(太閤記・寛永伝)。
慶長五年(1600)の戦乱の時は西軍に属し、八月、兵二千を率いて北国口を防衛(真田文書)。しかし、子至鎮が東軍だったので、敗戦後致仕のみで済んだ。落飾して蓬庵と号す(蜂須賀氏家譜)。
寛永十五年(1638)十二月晦日没、八十一歳(蜂須賀氏家譜)。