金沢城 いもり堀解明へ 南側で発掘調査

金沢城公園の宮守(いもり)堀の水堀化に向け、石川県は27日から、金沢市中央消防署広坂出張所跡地で埋蔵文化財調査に着手する。出張所跡地は堀の南側にあたる。南側は昨年度の調査で部分的に位置を確認した程度で、石川県は今回の調査で堀の全体像解明を目指す。
宮守堀はこれまでの調査で北側の位置や形状、規模などが判明しているが、南側は不明な点が多い。
昨年度の調査では、市道広坂長町線の県庁跡地側の歩道周辺を2カ所掘削し、堀の幅が約40メートルだったことを確認している。今回の調査は、7月に広坂出張所が移転したことを受け、出張所跡地を幅約4メートル、延長約12メートルの範囲で約3メートル掘り下げ、遺構の有無を見極める。
宮守堀は今年度から実施設計に取り掛かる。埋蔵文化財調査は1ヶ月程度を予定しており、県は堀の遺構を確認した上で、11月に開く予定の河北門等復元整備専門委員会で水堀化に向けた工法や整備範囲の検討に入る。(北國新聞2007年8月17日付記事)

Movable Type 4.0にアップグレードするが・・・

蒸し暑い日が続く中、多少無理が祟ったのか、今朝は夏風邪にやられて無性にだるい。お盆ということで近所の医院は休みなので、少し大きな病院に行き、薬をもらってきた。
夕方には薬のおかげでなんとか平常を保てる体調になったので、Movable Typeのアップグレードをやってみた。念のため、バックアップしてアップグレードを開始するが、すんなりと終了する。
管理画面は大きく変わっているが、表示はスタイルシートはそのままなので変わりがないように見える。管理画面をいろいろと眺めていると、便利になったところも多い。
このままいけるかなと、記事を書いてみたが、一箇所動作がおかしい。それは、新規ブログ記事を書くところで、画像をアップロードする際に、自動的に縮小画像を作るというもの。サムネイルを作成する設定が、以前は幅と高さがあったのが、幅しかない。これは仕様かもしれないが、そもそもチェックできない。システム設定を見ると、ここに使用するImageMagicというプログラムはインストールされていると認識されている。
Windowsサーバーということもあるだろうが、ここは使用できないと不便だ。折角のアップグレードだが、バージョンアップするまで待つとして元に戻すことにした。

日本100名城スタンプラリー 安土城

安土城考古博物館の記念シンポジウムに参加するついでに、信長の館にて安土城のスタンプをゲットしました。何度見ても安土城のレプリカはまばゆいです。天守に住んでいたといわれる信長ですが、こんな装飾で落ち着いていられたものでしょうか。
信長の館
安土城のスタンプの図柄は背景に大手門から続く大手道を配し、左前に安土城址の石碑を描いています。知らない人ならこんな場所があるのかと思うでしょうが、2箇所を合体させた図柄であり、ちょっと混乱させる危険がありますね。確かに大手道だけなら味気なかったのでしょうが・・・
スタンプ 安土城

シンポジウム「城と城下町」

滋賀県の安土城考古博物館では現在「城と城下町」というテーマで特別展が行なわれています。関ヶ原合戦後の対豊臣包囲網の要衝として築かれた彦根城と膳所城について調査された結果が展示されているのですが、本日は記念シンポジウム「城と城下町」が開催されました。お盆前という日程ながら会場には大勢の方は集まっていました。
帰省ラッシュとは逆方向の北陸自動車道でしたが、早朝敦賀付近でトレーラーが横転する事故があり、渋滞にはまってしまい、予定より1時間遅れて現地に到着したため、企画展示を見る時間がなくなったため、シンポジウムは講演を聴いて、最後のディスカッションはパスして企画展示を見てきました。
後日、関連した講演をすべてまとめた書籍が発刊されることが決まっているので、そちらで確認しようと思います。
シンポジウム「城と城下町」
シンポジウム「城と城下町」
企画展示を足早に見学した後、隣接する信長の館を見てきました。以前一度訪れたことがありますが、今回は8月4日に入場者100万人を突破したことを記念して、クリアファイルをもらうことができました。
信長の館
帰りに整備の終わった安土城の入口を見てきました。以前訪れたときは、まだ大手入口付近を整備している最中でしたが、今はきれいに石垣を積んで整備され、入口には有料になったため門が作られていました。
安土城 大手入口

市民フォーラム「歴史に学ぶ松任城」

市民フォーラム「歴史に学ぶ松任城」
市民フォーラム「歴史に学ぶ松任城」というテーマで、郷土史研究家の蒔田達雄氏の講演会が白山市松任学習センターで開催されました。
会場は主催した白山市都市公園課の予想をはるかに上回る100名以上の大入りで、いすが足りないほどでした。
内容は松任城近郊の起こりから現在までの歴史についてですが、以前あさがおテレビ(旧松任市のケーブルテレビ)で全12時間で放送されたものを1時間半に凝縮して話していただきました。
最初のパネルでも長享から天正頃の松任城の鳥瞰図がわかりやすいイラストで映し出されていましたが、想像を超える大きな立派な城だったようです。城域も現在の高岡城に匹敵するのではないでしょうか。
背景には、現在の「おかりや公園」と名称について「松任城址公園」と改名するかどうかという論争がありますが、おかりや公園という名の由来は若宮八幡宮の御仮屋(神輿などご神体を保管する小屋)があったからというものですが、実際の場所は少し場所が違うようです。おかりや公園の場所はまさに松任城の本丸跡になるのですが、松任城は廃城後の経緯から城址としての面影が全くなく、城址公園としてどう整備できるのか課題が残っていると思われます。
蒔田氏の話はテンポもよく、自説はいささか市民の意識に関する反論もありましたが、とても楽しいひとときでした。惜しいのは市民以外には開催の告知がなかったことでしょうか。私は以前新聞で読んだ記事を憶えていて、直接電話で聞きましたが・・・

金沢城の東内惣構堀 初の見学所

金沢市は9月下旬、金沢城の東内惣構堀で初めてとなる見学所の整備に着手する。11月末に完成する予定である。金沢城を中心に城下町に張り巡らされた惣構堀の歴史を伝える空間として、市民や観光客に開放する。将来の史跡指定も視野に惣構堀の保存、継承に取り組み、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産登録運動に弾みをつける。
見学所が整備されるのは、金沢市尾張町2丁目の橋場交差点付近の東内惣構堀で、昨年度に発掘調査が進められた。市は文化庁などと協議し、復元整備の概要をこのほど決定した。

金沢城オペラ祭

金沢城三の丸では本日から「金沢城オペラ祭2007」が始まります。今日は太鼓のようでちょうど準備をしていました。
金沢城オペラ祭
横では、金沢城の復元が着々と進められていました。先日新聞にも載った土塀です。現在は三の丸北側で進められていますが、中央の門部分から西側を解体して修理しているようです。
金沢城土塀
金沢城土塀
河北門の復元現場は暑い中ようやく作業が再開されていました。まだ石垣を積む前の発掘調査を進めている段階でした。
金沢城河北門

金沢城の石垣 きくざくら学習会

今日は金沢城・兼六園研究会の「きくざくら学習会」でした。会員の的場氏による「金沢城の石垣」というテーマで本丸南面石垣から薪の丸石垣、玉泉院石垣、鼠多門橋跡石垣というコースで見学しました。
金沢城・兼六園研究会
石川県では現在、本丸南側の宮守(いもり)堀の復元を計画していますが、軍隊が被服庫を建設するために大きく姿をかえてしまいました。明治40年(1907)、ちょうど100年前ですが、本丸南面石垣が崩れて今の三段方式になりました。現在見ると辰巳櫓下石垣は4段あります。先の話と食い違いますが、4段目は軍隊が宮守堀を埋めるために土を崩したためにできた崖を土留めするために作ったものです。
宮守堀という名前も石垣秘伝書で有名な後藤彦三郎が勝手に命名したもののようです。
今日は、石垣の部分名称に関する勉強もしました。その中で「縁が切れる」というのがあるそうです。今でも日常会話で使用されるそれと同じです。
どういう部分を指すのかというと、石垣を2つの違う積み方を徐々にではなく、くっきり並べてしまう部分のことです。この状態は石垣の積み方としては邪道だということのようです。下の写真は薪の丸の石垣ですが、隅石が「切り込みハギ」で、すぐ横に「打ち込みハギ」がきています。「縁が切れる」例です。
薪の丸石垣
次の写真も同じ薪の丸の石垣ですが、こちらは「切り込みハギ」から「打ち込みハギ」へ徐々に変化していくように積まれているのがわかるでしょう。
薪の丸石垣
最後に、もう1つ縁が切れる例です。金沢城に来ると誰もが通る石川門の内側の石垣です。右手に「切り込みハギ」、左手に「打ち込みハギ」と違う積み方を見れる石垣名所の1つですが、ここも角でいきなり積み方が変わるので「縁が切れる」と言えるでしょう。
石川門石垣

金沢城石川門 平成の大修理

平成18年度から「平成の大修理」に入った国重要文化財、金沢城石川門で、左右に延びる太鼓塀を補強する控柱が、平成20年度から江戸中期の形状そのままに復元される。石川県教育委員会の金沢城調査研究所は、これまでの解体・発掘調査で藩政期に控柱を立てた跡、横の柱の貫を通す上下二カ所の貫穴を確認した。現状の控柱はつっかえ棒のように斜めに渡した”無粋”な鉄筋コンクリート製だが、県教育委員会は柱跡などから本来の木造構造の確証を得たとして、来月、文化庁に形状変更を申請する。
控柱は、旧陸軍が管理していた明治後期から昭和初期に改造された。今回の調査で、木の板で囲んだコンクリート製の控柱の両端は上部の貫穴、江戸期の控柱の跡の位置とほぼ重なっていたことも判明した。塀内部の軸組には、古い部材と新しい部材が混在しており、1959年の改修で部材の一部が取り替えられていたことも裏付けられた。県教育委員会によると、能登半島地震の際、今回明らかになった藩政期の控柱の構造と同じ造りの塀や門では、倒壊を免れた例が多かった。接続部分の多い組み方が揺れの衝撃を分散させるとの見方ができ、太鼓塀は文化財の耐震研究でも貴重な史料に位置づけられそうだ。(北國新聞 2007年8月5日付記事)

19年度県民考古学講座 第3回 富山城の石垣調査から

富山県埋蔵文化財センターで開催された「19年度県民考古学講座」に参加してきました。今回は年6回の第3回ですが、「富山城の石垣調査から」というテーマで富山市埋蔵文化財センターの古川氏の講演でした。もともと県民対象の考古学講座で申込みが必要ですが、富山県埋蔵文化財センターの友の会会員になっているのであらかじめ申込みしていました。
本講座の主催は富山県ですが、講師は富山市です。石川県には県名と市名が同じところがないので、非常にややこしいのですが、以前友の会に入会するために行ったときも、始め間違えて富山市埋蔵文化財センターに行ってしまったこともあります。
さて、内容ですが、2005年度から進められている富山城の石垣整備事業の過程で分かってきたことをまとめていました。今年1月に金沢市で開催された「第4回全国城跡等石垣シンポジウム」の発表内容や発掘調査現地説明会の内容を含みます。
富山城は加賀藩前田家の分藩であったことで城郭の規模も小さく、富山市としても整備や調査に本腰を入れてきたとは言えず、今までは富山藩の政治や経済を中心に調査されてきました。現状を考えれば史実に忠実に復元するわけにはいかないでしょうが、昨年郷土博物館もリニューアルされて展示も豪華になり、大手となる鉄門石垣の修復も今年春終了し、今年度は払い下げられていた千歳御門が富山城に戻ってきます。千歳御門は元の位置がすでに開発されているため違う位置に復元されるようですが、鉄門と同形式の門ということで富山城唯一の現存建造物として目玉の一つとなりそうです。
次回の県民考古学講座は来月ですが、高岡市の前田利長墓地に関する講演です。楽しみです。