金沢城 河北門復元で寄進事業を始める

石川県は来月着工の金沢城河北門の復元事業にあわせ、壁板や平瓦の裏に県民が一口五千円で記名する寄進事業を始める。多くの県民に復元事業への理解と愛着を深めてもらう「県民参加による城づくり推進事業」の中心イベントと位置付け、第二期整備事業計画に基づき河北門に続いて復元する橋爪門でも同様の寄進事業を実施する。
今回の寄進事業の対象は2010年春の完成を目指す河北門の「二の門」の内部に使う壁板210枚と、「一の門」「ニラミ櫓台」の海鼠塀に使用する平瓦350枚。うち壁板は1枚当たり14口に分割し、計約3300口、1650万円を予定する。10日から県公園緑地課で予約を受け付け、壁板は来年5月から、平瓦は来年10月から申込み手続きを開始する。来秋以降に上棟式など工事の節目ごとに寄進者を招いて記名会や工事見学会を開く。(北國新聞2007年9月11日付記事)
石川県土木部公園緑地課 壁板・瓦の寄進について

日本100名城スタンプラリー 高岡城

スタンプラリー7個目は隣県富山県で唯一選定された「高岡城」です。本日は、城内の高岡市立博物館の常設展がリニューアルされた記念講演会に参加するために来ました。
城内はまだ暑いためか人もまばらでした。
高岡城址 本丸跡
高岡城の絵柄は複雑で最初何が描かれているのか分りませんでしたが、上下で別の絵がかかれています。上が高岡城を上空から見た俯瞰、下が本丸入口の橋に唯一残る石垣を描いています。夏は草が生えていて石垣は一部しか見えませんが・・・
日本100名城スタンプラリー 高岡城

講演会「高岡市域の中世史 -荘園と武士を中心に-」

昨日は朝から高岡市へ出かけました。目的は高岡城址内にある高岡市立博物館の常設展リニューアル講演会に参加するためですが、先日同日に伏木で現地説明会があることを知り、ついでに参加してきました。
高岡市伏木は富山湾へと注ぐ小矢部川の河口左岸の伏木台地に立地する越中国の国府のあった場所ですが、後に、中世城郭の古国府城へと変遷し、勝興寺が建てられた土地です。
越中国府関連遺跡現地説明会
現地説明会には朝から大勢の人が集まっていました。前日までの大雨で地面はぬかるみができ、水溜りもできていた影響で、説明は5人程度の単位で随時開催されました。個人住宅建設に伴う調査で、一部は建設によって破壊されてしまう可能性があるということで残念ですが、すでに周りは住宅や農地で利用され、土塁の一部もすでにない状態でした。それでも残っている一部からその大規模な中世城郭の存在を想像することはできました。
また、今回の調査で、本郭と土塁、堀からとなる単郭の遺構と考えられていた今回の遺構跡が、実は腰曲輪を持つ複郭遺構であったことが確認されました。
越中国府関連遺跡現地説明会
説明会を終え、先日講演会を聞いた前田利長墓地へ行きましたが、すでに発掘調査の後はありませんでした。
高岡市立博物館は高岡市と福岡町の合併により、常設展を今年7月にリニューアルしました。旧高岡市中心だった展示は木舟城などを含めて中世を中心に展示替えされていました。入場料は無料なので、高岡城址へ行かれたときはぜひ寄ってください。
さて、リニューアルを記念して3回の講演会が予定されていましたが、今回は最終3回目で、氷見市史など郷土史編纂に尽力されてきた久保尚文氏によって「高岡市域の中世史 -荘園と武士を中心に-」というテーマで講演がなされました。
講演会「高岡市域の中世史 -荘園と武士を中心に-」
ひとつ分かったことは、富山県には中世の歴史がほとんどないのは、今まで生活の跡がないからだと思っていましたが、実は古文書がないからだということです。県内に残る一番古い古文書は1350年頃、次は1400年代終わりということで、すっぽりと前田家が入ってくるまでの歴史が検証できない状態だそうです。
原因のひとつは足利尊氏と対立した部将桃井直常の本拠が越中であったため、敗軍のさだめとして関連文書はことごとく廃棄されたためだとか。
講演会「高岡市域の中世史 -荘園と武士を中心に-」
興味ある話としては、1585年11月29日に白川地方を震源とするマグニチュード8.1クラスの地震があったことに関連して、越中の歴史がいろいろと結びつくという事実。木舟が陥没して木舟城が廃城となった年が1985年。神通川は当時東西2本の支流があって、このときに西側がひあがったのではないか。秀吉が佐々成政の遠征を始めたのが1985年、成政の降伏が1586年だったことに影響したのではないか。ただし、どれも定説にはなっていませんが。ひとつの地震が歴史的出来事に深くかかわっている可能性を示唆する例でしょう。
古文書がないだけに正確な歴史が構成できないという事実とは裏腹に、古文書がないのでさまざまな想像ができるという事実。歴史の面白いところではないでしょうか。

ヤフーオークション結果

今回は意外に高く売れたものがあった。昔入っていたファンクラブの会報。確かに現在では入手できないものだし、雑誌の付録と同価値があるようだ。もちろん本人が現役である必要はあるようだが。
今回は222点で28点の落札となった。前記の高値もあって2万円を超えた。今回で長く出品してきたプラモデルが残り少なくなって保管場所が少なくて済むようになった。これまで大きなものもあって、ずっと何かに使うかと貯めていたダンボール類も少なくなってきた。
間を置かずに無料出品期間があったが、台風の影響で反応も悪かったので今回は新規はなし。売れ残りの雑誌類を中心に100点ほどの出品とした。

台風によるインフラへの影響を考える

昨日の夕方からどうもインターネットの反応が悪かったのだが、朝になってもその影響は収まらず・・・
普段どうりになったのは17時過ぎだった。18時には元通り。
何の影響かを考えてみた。おそらく台風による風によるものであろう。現在光ファイバーであるが、自宅近くは地面に埋設されている。しかし、途中は電線に巻きつけてあるものがほとんどの現状にあって、強風で瞬断されるような状況もあったのだろう。
電話も有線の固定電話より無線の携帯電話も災害には強いと言われるが、インターネットも同様かもしれない。首都圏直撃の台風でこの影響では、首都圏直下型地震が起きれば影響は如何ばかりのものか・・・
想像するだけでも恐ろしい。

石川 松波城跡庭園跡を調査

能登町教育委員会は6日、同町松波の県指定史跡松波城跡庭園跡の礎石建物跡の発掘調査で、礎石や柱穴、枯山水の造成用に集められたが使われなかったとみられる扁平な石が残る土坑、土師皿などを確認したと発表した。
新たに見つかった柱穴や礎石から、建物がこれまで考えられていた規模よりも大きいことが分かった。土師皿から推定して、建物が16世紀後半のものである可能性が高いとしている。土坑については、礎石を配置するために掘った穴と同じ面に掘られていることなどから、枯山水と建物がほぼ同時期に造られはじめたのではないかと推測している。
松波城は畠山氏の居城とされ、庭園跡は1962年に見つかり、1980年に発掘調査が行われた。今回は保全活用を目的に礎石建物跡など約70平方メートルを調査した。(北國新聞2007年9月7日付記事)

どうもネットの接続が悪いが・・・

昨日の夕方過ぎから今に至ってもインターネットの接続性が悪い。というより悪いサイトと良いサイトがある。設備工事のためかもしれないとルーターをリセットしてみるが変化がない。
どうしてかといろいろと考えてみたが、どうも関東に上陸している台風のせいだと思えてきた。
プロバイダもデータセンターも関東に集中している。まず、接続のユーザー認証が不安定である。次にデーターセンターの接続が不安定である。もしかすると台風で関東から日本全国に張り巡らされたケーブルが振られて影響がでているのかもしれない。
今日はヤフーオークションの落札日であり、また無料出品期間と重なった。こんな状態では処理が全く進まない。早く寝て明日対応したほうがよさそうだ。

食欲の秋!運動の秋!

冷房のおかげで夏バテもないうさですが、体力がないのが今までどおりです。それでも最近少し食欲がでてきました。
最近の散歩メニューは、
・時間(だいたい22時頃)になったら散歩をせがむ
・まずケージから飛び出す
・寄ってきて頭をなでるように要求する
・10~20分程度なでてもらってから、足の周りをぐるぐるまわる
・そして、広い場所で休む
その写真が次のもの
うさぎのうさ
正面はかわいいけど、どういう体勢かというと、後ろ足は後ろへ伸ばしていて、如何にも無防備。
うさぎのうさ
実はこの体勢のしっぽが一番かわいい。

京都宇治川で「太閤堤」跡見つかる

京都府宇治市の宇治川右岸で、豊臣秀吉が16世紀末、伏見城築城に伴い前田利家らに造らせた「太閤堤」の一部とみられる大規模な護岸跡が見つかり、宇治市歴史資料館が5日発表した。マンション建設に伴い、6月から宇治川の右岸約千三百平方メートルを調査していた。
護岸は江戸時代後期に度重なる洪水で埋没したらしく、これまで存在が分らなかった。護岸の石やくいも約四百年前の姿のままで発見された。表面には宇治川上流の岩が積み上げられ、斜面の下には護岸の崩落を防ぐため直径約20センチの松くい約三百本が打ち込まれていた。斜面や上部の平たんな面には割石が張られていた。(北國新聞2007年9月6日付記事)

平成19年度県民考古学講座 第4回 近世大名墓の考古学 -前田利長墓所とその周辺-

富山県埋蔵文化財センターで行なわれた県民考古学講座に参加してきました。今回もカメラ忘れたため写真はありません。
発表は同センター主任の岡本氏でした。前田利長墓所は金沢市と一体となった世界遺産登録に向け、平成18年度から高岡市教育委員会が主体になって調査が進められています。岡本氏は調査協力として参加していることから現在の調査経過をふまえて発表がありました。
前田利長墓所は内堀と外堀を備えた大規模な墓所であり、その墓所域が東照宮の徳川家康や萩の毛利輝元などと比べても桁違いに大きいようである。外堀は現在完全に埋められているが、発掘調査によっておおよその位置が分かったようだ。
墓石の前には現在鳥居が立っている。これは明治の廃仏毀釈で仏教を無理矢理神道へ変更した名残りなのだそうだが、その前は入口には立派な門があったであろうということで、なんとも惜しいことである。
高岡市の紹介ホームページ