番頭 大炊頭 (ばんがしら おおいのかみ)

生没年不詳。
大炊介。いは「義元」と伝わる。
もと三好氏の臣。永禄八年(1565)五月の将軍義輝しき逆に加わったが、義昭上洛後はこれに従い、兄の仇であるのにかかわらず重んじられる(細川家記)。
天正元年(1573)七月、義昭方として、石成友通とともに淀城に籠って信長に対抗。しかし、羽柴秀吉の誘いに乗って寝返り、淀城は落城。石成は討たれた(公記)。

ばん 安弘 (ばん やすひろ)

?~天正四年(1576)五月三日。
喜三郎。
直政の一族であろう。はじめ、直政と並んで信長の馬廻。元亀元年(1570)六月二十二日、小谷より退却の信長軍の殿軍を務めた佐々成政に協力した(ほあん)。
(天正元年 1573)十一月六日以前、越前西福寺より欠所処分に対する訴えをされ、これを滝川一益に打ちんしている(西福寺文書)。
天正二年五月、直政が南山城の守護に任じられると、これに従う。(同年)十二月四日、南山城の土豪はく綱吉に、神童子村の本知の安堵を確認している(小林文書)。
翌三年三月に、直政は大和守護を兼任する。安弘は、直政の代理の立場で、長柄城の見回りを行うなどして、大和・南山城で力を振るい、多聞院英俊からも贈品を受けている(多聞院)。
津田宗及の茶会にも、二度その名が見える。
天正元年十二月一日の会には、信長馬廻である松岡九郎次郎と相伴している(宗及記)。その後直政の家臣になったというわけでなく、信長の直臣の身分のままで直政に付属されていたのではないかと思われる。
同四年四月、直政に従って大坂攻めに参加。五月三日の戦いで、直政とともに討死した(公記・多聞院)。

伴 盛兼 (ばん もりかね)

天文十六年(1547)~天正十二年(1584)四月九日。
五郎兵衛、若狭守。
信長に属し、伊勢亀山城に住す。本能寺の変後、家康の伊賀越えに協力(重修譜)。
その後家康に仕え、六百貫の采配を賜ったが、天正十二年(1584)四月九日、長久手の戦いで戦死、三十八歳という(重修譜)。

ばん 直政 (ばん なおまさ)

?~天正四年(1576)五月三日。
九郎左衛門尉。めい姓、任官されて「原田備中守」。いは初め「正勝」。そのほか「重友」が「重修譜」に載っているが、文書では確かめられない。
姓の「ばん」は「重修譜」では「はなわ」としているが、「年代記」「多聞院」に「ハン」、「言継」に「伴」とあるから、「ばん」と読むのが正しいのであろう。

ばん 伝三郎 (ばん でんざぶろう)

?~天正十年(1582)六月二日。
ばん(原田)直政の一族かも知れないが、直政とは離れて行動している。
天正三年(1575)信忠の美濃岩村城攻めに参加。十一月二十一日、塚本小大膳が秋山信友の降参を仲介した時、目付としてこれに付けられた(公記)。
同十年六月二日、二条御所にて討死した(公記)。子は信雄に仕え、三十貫を知行している(分限帳)。

伴 十左衛門 (ばん じゅうざえもん)

生没年不詳。
「言継」天文二年(1533)七月条に見える「伴九郎兵衛兼久」の一族であろうか。
信長の馬廻か。永禄三年(1560)五月、今川義元の進攻に備えて水野たてわきらとともに丹下の砦に入れ置かれた(公記)。

ばん 小七郎 (ばん こしちろう)

?~天正四年(1576)五月三日。
ばん(原田)直政の臣。天正三年(1575)三月、直政が大和守護に補されると、直政の代官の形で、直政の本拠山城まきのしまを拠点として、南山城・大和の国衆を支配した(多聞記)。
しばしば多聞院英俊らより贈品を受け、訴訟についても受け付けている(多聞院)。
同四年五月三日、直政に従って大坂の兵と摂津三津寺に戦い、敗戦の中で討死した(公記)。

原田 与助 (はらだ よすけ)

生没年不詳。
佐久間信盛の与力。永禄十一年(1568)九月、信長の上洛戦に従軍。十二日、信盛に従って近江みつくり城を攻撃した(ほあん)。
天正四年(1576)十二月三十日と同五年五月二十五日の二回、津田宗及の茶会に出席しているが、いずれも同じ信盛の与力島信重と一緒である(宗及記)。

原 長頼 (はら ながより)

?~慶長五年(1600)十月十三日。
九兵衛尉、彦次郎、隠岐守。いは「政茂」「信政」「房親」「たね房」「可房」「高豊」「勝たね」「勝根」といろいろ伝わっている。
美濃土岐氏の流れで、頼房の子という。本巣郡花木城主と伝わる(美濃明細記)。はじめ斎藤氏、後、信長に属す。
信長に属してしばらくの経歴についてはあきらかではない。その活躍が見られるのは天正三年(1575)になってからである。この年八月の越前一向一揆討伐戦で、長頼は金森長近とともに濃州口から越前に侵入、一揆軍と戦った(公記)。戦後、柴田勝家に越前八郡が与えられた時、大野郡の三分の一を与えられ、勝山城主。勝家の与力となる(公記・武家事紀ほか)。
大野郡に対しては、戦いの前の天正三年六月六日付で、池田荘に忠節を促した信長朱印状に副状を発しており、征服前にすでに結び付きがあったらしい(誠昭寺文書)。郡三分の一の支配者になってからは、同年十二月、郡中のたん治座に特権を与えるなどの活躍が見られる(てっぽうや文書)。この当時は「政茂」(洪泉寺文書ほか)。