本日、さわやかな晴天の中きくざくら学習会が開催されました。今回は、植物の会と合同です。

兼六園と金沢城の紅葉をガイドブック「金沢城・兼六園 花めぐりマップ ~秋・冬コース~」を参照しながら巡りました。ガイドブックは金沢城二の丸休憩所で入手できますが、記載は一部間違いもあるようです。
自分では趣味はかなり窓口が広いという自負があるのですが、今回も関心が広がるかどうかと思って参加したのですが、自分には合いません。人工物には興味あっても自然は人工物の背景なんですよね、気持ち的には。紅葉も建物に秋のよそおいを添える景色です。何もない山城跡にはいくら急峻でも登っていくことは厭いませんが、どれだけ緩い山でも登山には積極的に参加できない性分です。会の皆さんには申し訳ないです。
カテゴリー: 城郭さんぽ日記
安土城紀行
文化晴れの1日となった本日、安土町で1日過ごしました。まず朝一で安土町立城郭資料館に向かいました。何度も安土城へ来ていますがここへ来たことはありませんでした。電車で来れば寄っていたのでしょうが、いつも車なので・・・
JR安土駅に隣接して南側に資料館はあります。喫茶店が併設されて、資料館の受付と両方担当するようです。

入るとショーケースに日本100名城に認定された賞状が飾られていました。安土城だけではなく、観音寺城のものも一緒に並べてありました。

見所はなんといっても20分の1の安土城天主の模型ですが、迫力満点です。中央から少しずれたところで割れて中を再現しています。望楼の高欄からは信長も城下を眺めていました。


他にも、信長がセミナリヨに寄贈し、後にローマ教皇に献上された安土南蛮図屏風も再現されています。安土城の描写をじっくりと楽しめました。今まで来ていなかったことを少し後悔しました。

見学が終わると、安土駅前北側の信長像を写真にとって、安土城発掘調査現場説明会に向かいました。予想はしていましたが大勢の人です。安土城城郭研究所の方々もここまで多いとは予想していなかったらしく、約250名の見学者を5班に分けて説明することになりました。

今回は春に整備された大手入口の石塁の解説と、南山麓の帯曲輪で見つかった未知の虎口と階段の案内です。平成元年度に始まった「特別史跡安土城跡調査整備事業」は20年計画で現在最終段階に入りましたが、まだまだ謎の全解明には息の長い調査が必要なようです。今回の発掘調査でも従来の安土城の姿がまた書き換えられました。

コスモスが咲き乱れる安土城考古博物館前ですが、午後は開館15周年記念講演会として開催される「織田信長の時代」に参加しました。場所は博物館ではなく、隣の文芸セミナリヨです。

残念ながら録音と録画が禁止ということで、写真は始まる前に撮ったこの1枚だけです。講演前には中央のパイプオルガンのミニ演奏会もありました。オルガンは信長がセミナリヨに置いたのが日本最初と言われることから、安土町にパイプオルガンを、ということになったようですが、音色は地元金沢の金沢音楽堂のほうが最新設備で良いように感じました。

講師は大阪大学名誉教授の脇田修氏です。信長の時代的評価に関して一般論を誤解している部分がありましたが、「家臣の統率方針」「経済政策」の面で織田信長と豊臣秀吉との間には明らかな違いがあるという論調は新鮮でした。武士の出身地を本領地として与える習慣をなくしたのは秀吉であり、また一家を城下に集住させるようにしたのも秀吉。信長の時代は地侍の習慣をまだひきずっていたようです。破壊のイメージの強い信長の政策である「関所撤廃」や「楽市楽座」も、尾張・美濃時代が中心であり、京では旧勢力に配慮してか関所も座(旧流通組織)も残しているようです。むしろ秀吉が農民出身という身分の違いから容易に破壊的な政策を実行できたようです。
時代の変わり目はまさにここにあり、信長は戦国、秀吉は近世と分けるのが適切なようです。
秋季特別展 三好長慶の時代

大津に車をおいてJR新快速で高槻市にやってました。学生のとき京都から新快速に乗って大阪によく行きましたが、途中で特急の雷鳥を抜いてゆくのでどういうことかと思っていたことを思い出しました。北陸出身の私は雷鳥に乗っているときに、逆に新快速に抜かれてゆくのです。
余談はここまでにして、目的は高槻市立しろあと歴史館で開催中の特別展「三好長慶の時代」です。時代劇チャンネルで再放送中の「信長 KING OF JIPANGU」は先日ちょうど信長が上洛して三好一族を追い払うという場面を放送しましたが、今回の展示は私にとってジャストでした。
三好長慶と松永久秀は後世において悪役として扱われることが多く、元来人気がないキャラと思っていましたが、三好長慶は高槻占有時に善政を敷いていたようで、現在でも水の神として祀る地域があるようです。
今回、芥川城跡の展示がいくつかありました。芥川城は畿内最大級の山城で、近世の高槻城の北方向にあります。織田信長が三好一族を追い払って入京する思案をした拠点も、ここだそうです。地理的には京を随分通り過ぎているように思いますが、昔の占領の考え方はあくまで点(拠点となる城や村)なのでしょうね。今回は随分と三好一族を見直すきっかけになった展示でした。
特別展のあと、無料の平常展を見ましたが、高槻城の石垣の積み方に関する大きな模型(発掘の成果を復元)がありました。高槻城の地盤は柔らかかったため、そのまま石垣を積むと沈んで傾くため、底に木材で土台を敷き、その上に石垣を積んでいたようです。初めて見る技法でしたが、納得の技法ではないでしょうか。石垣の発掘調査では、基部と言われる最下部の石垣まで掘り起こし、その下は掘っていないことが多いのですが、もしかすると、地盤が柔らかい場所では同様の技法が使用されているところがあるかもしれません。
高槻市立しろあと歴史館
歴史館で「高槻の史跡」というガイドブックを購入し、それを片手に市内の史跡めぐりをしてきました。

高山右近高槻天主教会堂跡
※高槻城主高山右近がキリスト教布教の拠点とした城内の教会堂

城跡公園の入口付近にある高槻城跡石碑

城跡公園の中にある高山右近像

城跡公園内の池

高槻城の大手跡(正門出入口)

本行寺
※日蓮宗寺院だが、表門が高槻城高麗門と言われている。
企画展 戦国の大津

大津市歴史博物館に企画展「戦国の大津」を見にやってきました。今回の企画展は大津市にある「大津城跡」「膳所城跡」「坂本城跡」の遺物を展示するものです。今回の展示であらためて膳所城の遺構が多く残っていることを再認識しました。いつかゆっくりとすべてを巡ってみたいです。
今回、特別に今年8月京都本能寺跡(第4次、本能寺の変のあった場所)から発掘された瓦や、聚楽第と伏見城の遺物も展示されていました。つい最近の遺物も本家本元の現在の本能寺宝物殿ではなくて、ここに展示されているとは!!意外です。でも遠くの発掘現地調査会には簡単には参加できないので実際に見ることができてうれしいです。写真撮れないのが残念ですが・・・。企画展図録にも収録されていないので来た方だけの特典というところでしょうか。
初めて行ったので平常展も見てきましたが、広かったのでゆっくり見ている時間がありませんでした。到着時間が予定より遅れたことも原因ですが、ここまで広いとも思っていなかったので、これは次回出直しです。
今回は早く到着すれば坂本も見学する予定でしたが、これは3日ぐらい大津だけで見学に来ないとすべて見て回れないかもしれませんね。
大津市歴史博物館
金沢城大学 よみがえる金沢城3

本日、11月に入るなり肌寒い1日でしたが、金沢城大学第四回が行われました。
今回は金沢城調査研究所の石野友康氏による「よみがえる金沢城」の3回目です。対象は本書の第4
章・第5章で、五代綱紀と宝暦の大火が対象です。石野氏は研究所のなかで絵図・文献担当だそうです。
五代綱紀は御三家に次ぐ家格を非常に意識していた藩主であり、金沢城をそれにふさわしくなるよう多くの改築を行っています。時は元禄の将軍綱吉の時代です。綱紀が蒐集した古文書や美術品は蔵4棟一杯になったともいわれ、現在の尊経閣文庫の名の由来となっています。
金沢城の二度の大火、宝暦の大火と文化の大火。宝暦の大火のあとは財政難だったため、二の丸御殿は大広間や表能舞台は再見されず、寛政の大地震、文化の大火を経てようやく再建されたようです。
寛政の大地震は1799年となるが、金沢を襲った直下型地震であり、城内や城下にも大きな被害が出たということであったが、あまり解明が進んでいないのか、金沢城略年表には省略されることが多く、金沢市史通史編にもその記述はないようである。それほど大きな地震が200年前にあったということでその詳細を知りたくなった。
前回に続き、「よみがえる金沢城」の訂正点を2点。
・77ページの「一万四〇〇〇貫目」という記述が正しくは、「一五〇〇貫目」。
・77ページの奥村支流の「温良」に金沢城代の色がついているが、正しくは無色(城代にはなっていない)。
安土城もっと広かった
滋賀県教育委員会は29日、織田信長が築いた滋賀県安土町の安土城が、従来考えられていたよりも南側に約120メートル広かった可能性があると発表した。内堀も設けていたようで、「大坂城などのように堀を構えて守りを固めた、近世城郭の先駆けだったのだろう」としている。
滋賀県教育委員会は、城の南端とされていた石垣に沿って、要所への出入り口「虎口」の遺構を発見した。石垣の高さはわずか1.3メートルから2.5メートル。虎口も敵の侵入に対する備えのない簡単な造りだった。付近に見張り小屋などもなく、この石垣が城の内外を隔てていたとは考えにくいと判断した。(北國新聞2007年10月30日付記事)
地元以外の発掘記事が新聞に載るのは珍しいことですが、今週末の3日(土)に安土城で発掘調査現地説明会が予定されています。きっと今回の発見に関する説明会だと思いますのでと楽しみです。
金沢城跡 来年国史跡として申請
石川県の谷本知事は26日、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産暫定リスト入りに向け、来年一月ごろに金沢城跡の史跡指定を文化庁に申請する意向を明らかにした。史跡の範囲は、金沢城公園の都市計画決定区域の公有地とし、来年秋ごろには指定されるとの見通しを示した。また、金沢城内にある江戸時代の土蔵「鶴丸倉庫」について、来年春にも国の重要文化財の指定を受けられると述べた。同日、金沢市の金沢スカイホテルで開かれた金沢経済同友会との意見交換会で、同友会側の質問に答えた。
城下町金沢の文化遺産群のうち、金沢市が調査を担当している前田家墓所は来年度、辰巳用水は再来年度と、国の史跡指定を目指す時期が示されており、県管理の金沢城跡でも目標時期が明示されたことで、世界遺産の暫定リスト入りへの準備が進むことになる。
鶴丸倉庫については、前田育徳会の尊経閣文庫の資料から鶴丸倉庫の平面図が見つかり、江戸後期の嘉永年間に存在していたことが裏付けられたとして、県はこの平面図とともに、文化庁に国の重要文化財への指定を申請する。
金沢城河北門の寄進事業 橋爪門でも
県議会土木企業委員会は25日開かれ、県側は2010年春の完成を目指す金沢城河北門復元整備で初めて取り組む瓦や壁板の寄進事業について、橋爪門や玉泉院丸庭園など今後の第二期復元整備でも活用を検討する方針を示した。
寄進事業は一口五千円を募り、河北門の瓦や壁板に記名してもらうことで、県民に復元事業への理解と愛着を深めてもらう狙い。1650万円が目標で、これまでに、瓦で62口、壁板は30口の予約があり、来年五月以降、正式に申込みを受け付ける。(2007年10月26日付記事)
石川県土木部公園緑地課 壁板・瓦の寄進について
七尾城 豪雨で被害が拡大
能登半島地震で石垣が崩落した国指定史跡・七尾城跡で、15日深夜から16日未明にかけての豪雨のため新たに18ヵ所で土砂崩れなどが起きていたことが、24日までに分かった。9月に文化庁から交付される補助金の額が決まり、七尾市教育委員会は来年夏までの復旧を目指していた矢先の被災で、修復がさらに遅れることは確実と見られる。七尾を代表する名所だけに、関係者は頭を抱えている。
七尾城跡の石垣は3月の地震で、本丸登り口が幅約2メートル、高さ約5メートル、桜馬場が幅約7.8メートル、高さ3.7メートルにわたり崩落した。先の豪雨では本丸跡の土塁が幅約10メートル、高さ15メートルにわたって崩れるなど、18ヵ所で被害が確認された。駐車場近くの入口では土砂が通路を覆い、敷地内では二次災害を防止するため6ヵ所に10メートル四方のビニールシートが張られた。(北國新聞2007年10月25日付記事)
京都 本能寺へ
長浜市から電車で京都へ移動しました。先月からスカパーでNHK大河「信長 KING OF JIPANGU」が始まったこともあって、ちょっとした信長紀行です。
まずは、永禄4年(1561)イエズス会宣教師ヴィレラが信長庇護の下、教会を建てた「南蛮寺跡」を訪問です。とはいえ、石碑だけですが・・・。それもバイクに隠れて見つけるのに苦労しました。参考にビルの写真載せます。
南蛮寺跡 中京区室町通蛸薬師西入ル

そこからさらに西へ進むと、信長が明智光秀に討たれた本能寺跡があります。本能寺の変のあった本能寺は4回目に建築されたものです。ちょっと前のインターネットの案内では古い小学校とあるのですが、今はすでに新しい建物が建っていて、特養老人ホームと高校になっていました。
本能寺跡 中京区蛸薬師油小路下ル


次に、現在の本能寺に行きました。本堂後ろに信長のお墓(公廟)がありました。宝物殿には先の本能寺跡で発見された遺物なども展示されていましたが、展示内容は満足いくものではなかったです。


最後に、目的の京都国立博物館に向かいましたが、入る前に近くの方広寺と豊国神社に行きました。大坂の陣の原因ともなった梵鐘を見学後、伏見城の遺構と伝えられる豊国神社の唐門を見学しました。かなり大きな門で、細工もかなり凝ったものでした。人がひっきりなしにくるので、残念ながら無人の写真を撮ることはできませんでした。

