今日は自宅周辺で作業停電がありました。すっかり忘れていましたが、停電で車を車庫から出すこともできなくなったので、午前中はサーバーを消したり付けたり、電化製品の状態を確認したりしていました。こんなときはオール電化の不便さをしみじみ感じますね。
昼前に家を出て、仕事に行く前に涌波の加賀藩塩硝蔵発掘現場の様子が気になって寄ってみました。
予想はしていましたが、発掘現場はすでに埋められていました。今年も現場説明会には参加できませんでした。あったのかな?
今年どのくらい解明されたのか、調査報告書が楽しみなところです。来年度もあるのかな?
カテゴリー: 加賀藩塩硝蔵跡発掘調査
加賀藩塩硝蔵跡発掘現場 今年度はトレンチ3箇所
10月末から開始された加賀藩塩硝蔵跡発掘ですが、年内には埋め戻しが始まるかと思い、その前に状況を見てきました。時折雨のちらつく天候でありますので、もちろんトレンチの穴はブルーシートで覆われており、その下の状況はわかりませんが、側面を中心に見てまわりました。
今年は昨年のトレンチ付近を3箇所トレンチされており、これで倉庫の範囲はほぼ確定したのでしょうか。まだ発表もないので何もわかりませんが、昨年は確か2箇所でしたので、短期間にしては進んだほうですね。
側面には多くの赤瓦が見えますが、いつの時代のものでしょうね。
一番北側のトレンチには礎石らしき石がありました。今年は説明会に参加したいのですが、昨年はいつの間にか開催されていましたから、いつでしょうか?
近くのえんしょう坂の入口には真新しい辰巳用水の看板が立っていました。何らや観光地化が進んでいるようです。
加賀藩塩硝蔵の規模解明へ
藩政期の加賀藩の軍事施設「土清水塩硝蔵」の発掘調査が31日、金沢市涌波町の休耕果樹園で再開した。昨年の市の調査では、火薬原料となる塩硝(硝石)を保存する蔵「硝石御土蔵」の基礎跡の一部と堀の痕跡と見られる遺構を確認。今年は1ヶ月ほどの調査で御土蔵の規模を確定を目指す。市では将来の国の史跡指定や復元整備の足掛かりとする。(2008年11月1日付記事)
今日から金沢市では9例目となる旧町名「南町」が復活しました。塩硝蔵跡は昨日偶然見に行ったばかりで始まったばかりだったとは運が良いです。
大野湊神社と土清水塩硝蔵跡発掘
金沢市では国の「文化財保護強調週間」に合わせて今年初めて「金沢歴史遺産探訪月間」と称して各種イベントを開催しています。今日は平日ではありますが、寺中町にある大野湊神社で未公開なものが公開されます。
場所は知っていましたが、実際に訪れるのは初めてです。公開されるのは写真の能舞台かと期待して行ったのですが・・・
実際は旧拝殿に保管されている以下の「絵馬」1点と「木造狛犬」2対でした。絵馬は間口八間の旧拝殿にぴったり収まるほどの大きなものでしたが、状態もよく、源平盛衰記の絵の間に河北潟や宮腰、大野湊神社が描かれていました。
その後、笠舞のパレットで開催中のイワイ学館所有の絵図展を見に行きました。注目は幕末の世界絵図で、間近で貴重な絵図を鑑賞できる貴重な機会となりました。
そして、近くで行なわれているであろう発掘現場に向かいました。場所は涌波の加賀藩の火薬製造工場のあった土清水塩硝蔵跡です。昨年も休耕園となった現場で発掘調査が行なわれましたが、煙硝蔵土蔵跡の礎石と堀跡が見つかり、今年はそのすぐ隣で土蔵の範囲を確認する調査を行なう予定でした。10月開始予定とは聞いていましたが、何か始まったばかりのような、あまり穴は広くないですね。しかし、望遠で確認するとすでに礎石の一部はでてきているようです。
城下町金沢の文化的遺産群と文化的景観セミナー 見えてきた「塩硝の道」をたどる
北國総合研究所が主催する3回シリーズ「城下町金沢の文化的遺産群と文化的景観セミナー」の第3回に参加してきました。天候の悪い日が続く中、今日も天候が非常に心配でしたが、なんとか夕方まで持ちました。募集人数40人のところ、大幅に増員して80名で2台の観光バスで目的地に向かいました。
こういうセミナーの良いところは普段見れないものが見れたり、団体向けに解説がつくところですね。参加費も昼食、拝観料込みで3,000円という値頃感があります。
本日最初の目的地は、昨年発掘調査で話題になった土清水塩硝蔵跡です。「土清水」なんて読むのかな?と思っていましたが、「つっしょうず」と読むようです。しかし、塩硝蔵跡がある土地は現在涌波と一部大桑です。おそらく出入口が土清水にあったから、というのが名の由来のようです。
発掘担当であった金沢市埋蔵文化財センターの担当者から脇の辰巳用水沿いを歩きながら説明を聞きました。意外にまだまだ藩政期の跡が残っているのですね。土清水から入ってくる道跡、道跡から辰巳用水を渡る橋のあった場所の石垣、外周の外堀跡など、草が枯れてきた頃にもう一度確認しに行きたいです。
本年度も発掘調査が来月行われるということで、場所は昨年の発掘場所の隣です。楽しみです。
バスは塩硝蔵跡をあとにして高速で五箇山に向かいました。到着したのは、国重要文化財岩瀬家です。
中で当主に岩瀬家の由来と塩硝の道についての説明を聞きました。
岩瀬家の裏に小屋があったので何だろうか?と思い当主にお聞きしたところ、発電所だということでした。自家発電用に建てられたものだそうですが、水力発電所は山奥に造られることから、平野部よりも早く電気が通るようになり、大正時代には使われなくなったそうです。なかなか貴重なものですが、中は公開していないようです。
昼食をとったあと、合掌造り集落のひとつ、菅沼集落に行きました。集落内の田んぼが稲穂を垂れ、良い景観でした。
合掌造りの屋根は三重構造になっていて、外側から萱(かや)、麻(前回分)、麻(今回分)となります。村近くの山には今でも専用の萱畑があり、毎年育てて屋根葺き替えの準備をするそうです。萱の内側に麻を敷くのは、萱のボロボロと落ちてくる端を防ぐ役割だそうです。
集落内の塩硝の館では、塩硝の作り方を学ぶことができます。右のパネルにあるように囲炉裏の下を掘って、干し草と蚕糞を入れ、囲炉裏の熱で一冬発酵させるそうです。五年目から塩硝の材料として使えるという気の長い作業です。
最後に、合掌造りの集落、相倉集落に行きました。ここまで時折日も差す暑い日となりましたが、一気に天候も下り坂で小雨が降ってきました。集落内の民族館で説明を聞いていたら、集落内をゆっくりと巡る時間がありませんでした。
今日は塩硝の道について勉強になりました。この企画は毎年大盛況のようですが、世界遺産になれなくても郷土の歴史を知るために続けてほしいです。
金沢城 来年度塩硝蔵を追加調査
金沢市は来年度、藩政期に黒色火薬を製造、貯蔵していた「土清水塩硝蔵」の追加調査を実施する。全国的に見ても珍しい歴史遺産であり、価値付けにつなげる。
今年度の発掘調査では、涌波町の休耕果樹園内で硝石土蔵と堀の痕跡が確認された。これらの遺構は幕末から明治初期にかけての「土清水製薬所絵図」に記されている建物の配置と合致していた。来年度は同じ休耕果樹園内の複数の地点で発掘調査を実施する方向である。絵図に記されたもう一つの土蔵の存在を確認するとともに、堀の規模などに関するデータをさらに収集する。
今年度は涌波一丁目の涌波堤公園でも調査を実施し、塩硝を硫黄、木炭とともに粉末化する施設である「三品搗蔵」を確認しようとしたが、遺構は発見できなかった。市は、絵図に記されている辰巳用水沿いの「搗蔵」などの存在を裏付ける調査実施も検討する。(北國新聞2007年11月27日付記事)
加賀藩 土清水塩硝蔵発掘現場
先週の新聞記事で発掘現場説明会が開かれたことを読んでから気になっている場所があった。加賀藩が火薬の原料となる塩硝(えんしょう)を保管した倉庫があったとされる場所である。もともとは、金沢城内にあった塩硝蔵であるが、相次ぐ火災に懲りたのか、江戸後期には辰巳用水沿いの現在地に移されたという。
新聞報道でも金沢市涌波1丁目とあるだけで詳細な場所は良く分からなかったが、地図を調べていると、「塩硝蔵跡堤公園」の文字が・・・
早速入ってみた。
その場所はすでに整備されたきれいな公園であった。地図ではここが「土清水塩硝蔵跡」とするものがあるが、公園に建つ石碑によると、この一帯は灌漑用に辰巳用水の水を貯めた堤があった場所で、この公園の南側一帯が火薬製造所、西側一帯が焔硝庫(石碑のまま)となっている。
確か、この公園でも1箇所調査したはずだったと思い、探していたらトイレの裏あたりに1箇所、一度掘られて埋め戻されたような場所を発見した。が、すでに埋められていて何か出てきたかまでは分からなかった。
公園北の階段を上ると、辰巳用水沿いに遊歩道があった。きちんと整備されていて、こんな場所があることに驚いた。
東へ少し進むと、土清水から涌波へ降りてくる階段があった。「塩硝坂」の案内板によると、五箇山で製造された塩硝をここにあった塩硝蔵に運ぶ経路の一部らしい。
塩硝坂から南側には果樹園と畑が広がっていたが、そこで新聞記事にあった発掘現場を見つけた。
幸いにもビニールカバーもなく、そのままの状態だったので、ゆっくりと見学した。断層には瓦の破片が残り、破片が出ている地層の下は黒く焼けたような色の土が堆積していた。石が並んだ側溝のような遺構も見られたが、やはり説明を聞かないと見ただけで調査の成果を類推するには知識が不足していた。とはいえ、現場を自分の目で確認できたのはひとつの成果である。
加賀藩の火薬製造・貯蔵施設 土清水塩硝蔵を確認
金沢市文化財保護課と市埋蔵文化財センターは8日までに、同市涌波町などで加賀藩による黒色火薬の製造、貯蔵施設であった「土清水塩硝蔵」を発掘調査し、塩硝を保存していたとみられる土蔵の礎石と、梅鉢紋入りも含む多数の屋根瓦を確認した。史料の乏しい軍事施設の実態に迫る成果で、市は引き続き調査を進め、敷地面積約8万平方メートルとされる塩硝蔵の範囲特定と全容解明を目指す。
塩硝蔵の存在は、幕末から明治初期にかけての建物の配置を記した「土清水製薬所絵図」などの史料で知られていたが、遺構として確認されたのは初めて。発掘は、国史跡指定を目指す辰巳用水の詳細調査の一環として、9月10日から涌波堤公園周辺の2カ所で行われ、うち涌波町の1カ所から土蔵の存在を示す20個の礎石と、土蔵が本瓦葺きであったことを示す大量の赤瓦が見つかった。瓦には加賀藩主前田家の家紋である梅鉢紋が入った軒平瓦も含まれていた。
加賀藩の塩硝は江戸時代、国産最良の品質で生産量も最大とされ、幕末には五箇山から年間5トン余りを買い付けていた。塩硝蔵はもともと金沢城内に設けられていたが、火事が相次いだため、1658年に土清水に移転し、1870年以降に廃止されたらしい。
塩硝を硫黄、木炭とともに粉末化した辰巳用水沿いの工場「三品搗蔵(みしなつきくら)」は今回の調査では確認できなかった。(北國新聞2007年10月9日付記事)