7月例会 「花開いた百万石文化」

今日は石川県立美術館の嶋崎館長を迎えて、「花開いた百万石文化」というテーマで講演会が開かれました。
7月例会 「花開いた百万石文化」
広坂休憩所の部屋は珍しく盛況でしたが、話の内容も加賀藩の文化が公家文化であるのか?武家文化であるのか?という点についてとても興味深い話でした。
藩政期末期には江戸、大坂に次ぐ人口を誇った加賀藩の金沢は、その半分以上が武家という町ではありますが、その文化は典型的な公家文化であり、桂離宮を筆頭とするような質素を良しとするものであったようです。
五代綱紀公から十七代までのコレクションである「尊経閣文庫」ですが、その本体はあくまで東京であり、金沢で見られるのはその一部です。私は何と言っても、物の百科辞典といえる「百工比照」のすべてを一度見てみたいのですが、戦後の一時期は金沢にあったそうです。
加賀百万石の文化講座
嶋崎館長は勤続50年、1カ所の勤続としては日本一長い館長だそうですが、9月6日に一般向けに講演を行います。
今年は石川県立美術館で初めて「加賀百万石の文化講座」が4回開催される予定で、館長は第3回が予定されています。
他にも、現在の前田家当主による「加賀前田家を語る」や、石川県立歴史博物館元学芸員の長谷川氏による「有職故実と日本文化」、地元歴史家であり著作も多い野村さんによる「溶姫の人生」など楽しみな講演があります。

金沢城・兼六園研究会総会

今日は金沢城・兼六園研究会の総会でした。もう3年目になるのですね。ご年配の方に囲まれて、若い者はただ1人ですが・・・、平日の学習会を修了した者のみが参加を許可される仕組みなので自然そうなります(今の境遇では自分でも参加資格は取れないです)。
金沢城・兼六園研究会総会
総会の後の記念講演は金沢城調査研究所の石野友康氏による「よみがえる二の丸御殿」というテーマで文献・絵図にみる二の丸御殿の話でした。
金沢城・兼六園研究会総会
二の丸御殿の調査は史料の乏しさもあって、平成13年7月の金沢城研究調査所(現在の金沢城調査研究所)発足後にようやく調査も途に就いたばかりということです。
今年19期生を迎えた同会ですが、今年は約20名会員が減りました。会員の年齢による要因が大きいとのことでしたが、自分と同期の17期生の減り方がさびしい限りです。兼六園の学習会が発足母体であった同会にとって、金沢城の学習会が中心の最近の入会者は、活動内容のギャップも原因のひとつだと思いますが、金沢城と兼六園はともに地元の宝ですから、工夫して会が盛り上がることを期待しています。自分は環境が変わってあまり参加できなくなったので、自由に参加できる時(あと30年・・・長いなあ)までぜひとも残っていて欲しい。
旧石川県庁
総会は生涯学習センターで開催されたので、窓からは整備中の旧石川県庁舎の様子が見えます。
旧石川県庁
石野氏の話のなかにも出てきた学習センター隣りの建物も撤去され(いつの間にか平地になっていて言われて気がついた)、金沢市役所方向からみると、金沢城の石垣が見通せるようになりました。
金沢市役所前からの眺望
石垣と本丸の森、欲を言えばここに櫓が1つ欲しい。

金沢城・兼六園研究会 6月例会講演会

今日は夏至、最も陽の長い日です。先週末に北陸も梅雨入りしましたが、ちっとも雨が降りません。明日以降は少し降るでしょうか?
さて、今日は金沢城・兼六園研究会の6月例会でした。今日は9月の大名庭園民間交流水戸サミットに向けて、「加賀藩の茶道」を勉強しました。講師は茶道裏千家教授、石川県茶道協会代表理事である大島宗翠氏です。
金沢城・兼六園研究会 6月例会講演会
茶の湯や茶道については門外漢の自分ではありますが、中世以降は政治と深く結びついた茶の湯の話を興味深く聞きました。金沢では外様最大の石高として藩主のみならず、家臣や町人も茶の湯をたしなんだということで、城下に茶屋街が3つもあるのも特別なことでしょう。
加賀藩の茶道
そういう経緯からも旧加賀藩領にはたくさんの茶室が残っていたのですが、茶室は他の部屋に転用の効かないもののため、調査される度にその数は減少しているとのことでした。

金沢城・兼六園研究会 総会&5月例会

今週末は良い天候に恵まれそうです。本日は金沢城・兼六園研究会の総会日でした。
旧石川県庁 発掘調査現場
会場は石川県立生涯学習センターでした。前の旧石川県庁では先日の新聞報道にもあったとおり、発掘調査が始まっていました。堂形にあった倉庫跡など出てきたらまた見に行きます。
金沢城・兼六園研究会は本日第18期の13人を迎え160名となりました。私は第17期ですが、昨年より人数が減っているのが気になります。特に、昨年入った我が第17期が継続者が少なかったのは残念です。金沢城大学出身者のため、兼六園が活動に相当入っていることがイメージと違ったのでしょうか。
それにしても、金沢城跡が国史跡に答申され、後に野田山墓地や戸室山石垣丁場跡など同等の史跡が多数控える中で、ガイドの素地となる本会会員層が薄くなるのは残念なことです。
金沢城の建物の魅力
総会の後、5月例会として、金沢城調査研究所の正見氏による「金沢城の建物の魅力」というテーマの講演がありました。正見氏は地元金沢の出身で研究所では建物の担当です。
何度か正見氏の講演や解説を聞いたことはありますが、今日はいつもとは切り口の違う講演でいろいろと発見がありました。
突然ですが、皆さんは「城郭建築物」って何を指すか分かりますか?
  天守は?門は?櫓は?塀は??御殿は???倉庫は???
城郭建築物の定義は江戸時代の武家諸法度らしいです。社会の授業で習いましたね。その中では「城郭建築物とは戦闘に関係する建築物」ということらしく、天守、門、櫓、塀などが該当します。生活に供する御殿は該当せず、倉庫は・・・?よく分かりません。
城内にあったその他建築物といえば、神社や東照宮です。金沢城の東照宮と言えば、尾崎神社ですが、今日帰りにたまたま寄ってみると、なんと本殿瓦の修復に合わせて、拝殿の雪囲いが外されていました。最近は鮮やかな彩色を保護するために年中囲いがされていましたが、今日は思わず「アッ!」って叫んでしまいました。おそらく期間限定ですので、昔ながらの囲いの無い写真を撮るのは今ですよ!
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今年1月の拝殿
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今日の拝殿
話を戻しまして、明治以降城外に移築された建築物には以下のようなものがあります。
・金沢東照宮社殿
  ・・・尾崎神社本殿・拝弊殿
  ・・・長田菅原神社拝殿(旧本地堂もしくは護摩堂)
・二ノ丸唐門
  ・・・尾山神社東神門
・二ノ丸能舞台
  ・・・中村神社拝殿
・玉泉院丸二重塀
  ・・・旧江戸村(現在の所在は不明)
長田菅原神社と中村神社については後日行く予定です。

金沢城・兼六園研究会一月例会 「映像などから考える兼六園の今昔」

映像などから考える兼六園の今昔
本日は金沢城・兼六園研究会の例会でした。元兼六園管理事務所所長の下郷稔氏により「映像などから考える兼六園の今昔 -復習・兼六園のなりたち-」というテーマで講演がなされました。
歴史は日々の研究により刻々と変わるといいますが、兼六園や金沢城の歴史も変わるかもしれないと思う論説を聞かせていただきました。
例えば、前田利家が金沢城に入城した日。旧暦で4月24日、現在の暦で6月14日となり、金沢百万石まつりの利家の入城を再現した百万石行列の行われる日(現在は土曜日に固定)でもある。しかし、古文書では4月24日は北ノ庄で柴田勝家が自害した日、そんな日に金沢に利家がいたとは考えにくい。秀吉は4月28日に尾山(金沢)城に入ったとされるため、利家は前日の27日、または同日の28日であろうと考えられるのである。
歴史研究の面白さを実感した講演でした。

金沢城・兼六園研究会例会 講演会「最後の藩主・前田慶寧について」

本日、金沢城・兼六園研究会の例会がありました。「どこかに出かけるときは多いけど、こういう室内の勉強会は参加が少ない」と言っている方もいましたが、確かに今後の方針を決める例会としては少ない30名ほどが集まりました。
本日の課題は「グループ活動の活性化について」です。結成から17年も経つと組織が硬直化してきたということで、どうにか活動や参加を活性化させる案はないかということで意見交換しました。いろいろな意見がありましたが、高齢化を反映してか、80対20の法則(※)がくっきりと働いているようです。20の執行部や講師予備者と80の聴衆。まあ発表者にとっては聴衆がいないと話し甲斐がないですから、何もすべての方が研究して発表する必要はないと思いますが、発表した後の爽快感や満足感はひとつのやりがいや生き甲斐となると思うのですが。
※パレートの法則といい、経済において全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという説。例として、10名の会社では上位2名で8割の売上を占める。
講演会「最後の藩主・前田慶寧について」
後半は前石川県立歴史博物館長の徳田氏により、「最後の藩主・前田慶寧について」というテーマでの講演でした。徳田氏も言っておられましたが、加賀前田氏の研究では、藩祖の利家から二代利長、三代利常、五代綱紀が先行しており、それ以降の藩主については一般書もないような状況であります。
最後の藩主となった慶寧が、幕末においてはっきりした態度をとらなかったことを明治政府を構成した薩摩藩や長州藩が、優柔不断と断言し、現在それが通説のようになっています。某有名知識人でもひと頃の安倍政権を加賀藩のようだ、と揶揄したくらいであり、徳田氏はそんな風潮を変えたい、慶寧は非凡な藩主であったということを生い立ちから説明されました。講演は青少年時代を話したところで時間切れとなり、残念ながら成人後の話にまで至らなかったが、徳田氏は今月末にも「前田慶寧と幕末維新」という題で書籍を発行されるそうで発売が楽しみである。
徳田氏は本日の北国新聞に載っていた、東京都板橋区の「加賀藩学講座」の講師も勤められるようだ。加賀藩下屋敷のあった板橋区では、定員40名のところに150名もの申込みがあったそうで急遽80名に増員したとのことだが、東京でもふるさと学習はさかんなようである。私も最後の藩主、前田慶寧については引続き勉強していきたい。

金沢城・兼六園研究会 キゴ山石切り場を歩く

今日は金沢城・兼六園研究会のお城サークルときくざくら学習会合同のキゴ山にある石切り場を歩く会です。40名ほどの参加で、案内役は金沢城調査研究所の冨田氏です。冨田氏は石垣担当なので、これまでも何度か城内の案内を聞いたことがあります。
舗装された道路からけもの道に入ってすぐに、切り出した石を集めておいたところが現れます。石には石割の際についた「矢穴」や石切集団のしるしである「刻印」が見て取れます。それにしても地表に出た部分は苔生して風情があります。一部石には最近割られた跡があるものもあり、心許ない輩がいて残念です。
キゴ山石切り場を歩く
キゴ山石切り場を歩く
キゴ山石切り場を歩く
キゴ山石切り場を歩く
キゴ山石切り場を歩く
さらに山頂に向かうと、数分で地表にくぼみがある場所に巨石がいくつも残る場所に出ました。人の身長よりも大きな石や、割られて加工途中で放置された石(対で残るものもあり)もあり、ここでもやはり矢穴や刻印を見て取れます。
キゴ山石切り場を歩く
キゴ山石切り場を歩く
キゴ山石切り場を歩く
キゴ山石切り場を歩く
この場所は、冨田氏も絶賛する趣のある場所で、放置され苔生した石の配置が庭にも見えないこともありません。あえて現状維持で発掘調査もされなかった場所らしいので、今後史跡整備されるようなことがあればまず一般公開されるべき場所であろう、とのことでした。確かにすばらしい場所です。
キゴ山石切り場を歩く
今日は曇っていましたが、週間予報でも雨になっていた天候がもって良かったです。非常な急斜面であったため、雨が降っていたり、雨が降って地面が濡れていたなら、到底登ることができなかったでしょう。

きくざくら学習会 城と庭の紅葉

本日、さわやかな晴天の中きくざくら学習会が開催されました。今回は、植物の会と合同です。
きくざくら学習会 城と庭の紅葉
兼六園と金沢城の紅葉をガイドブック「金沢城・兼六園 花めぐりマップ ~秋・冬コース~」を参照しながら巡りました。ガイドブックは金沢城二の丸休憩所で入手できますが、記載は一部間違いもあるようです。
自分では趣味はかなり窓口が広いという自負があるのですが、今回も関心が広がるかどうかと思って参加したのですが、自分には合いません。人工物には興味あっても自然は人工物の背景なんですよね、気持ち的には。紅葉も建物に秋のよそおいを添える景色です。何もない山城跡にはいくら急峻でも登っていくことは厭いませんが、どれだけ緩い山でも登山には積極的に参加できない性分です。会の皆さんには申し訳ないです。

辰巳用水の見学 きくざくら学習会

本日、あいにくの悪天候のなか、金沢城兼六園研究会のきくざくら学習会およびお城研究サークルの行事として、辰巳用水の見学会が行われました。
辰巳用水は、箱根用水と多摩川用水と並ぶ日本三大用水ですが、建設当時の寛永期のトンネルが今でも使われている唯一の用水です。
まずは、金沢市の福祉バス「マナビー」に乗って、犀川上流の辰巳用水の取水口である「東岩取水口」に向かいました。
辰巳用水の見学 きくざくら学習会
大雨で足場が悪かったですが、増水した犀川のカーブに設けられた取水口には水がどんどんと吸い込まれていきます。貴重な場所ですが、今年11月から犀川ダムの建設のため、当分の間見学できなくなるようです。
辰巳用水の見学 きくざくら学習会
次に、少し下流に移動し、清浄ヶ滝排水門を見学しました。この少し下流で辰巳用水建設に伴い唯一のトンネル崩落による死亡事故があったとのことでした。
辰巳用水の見学 きくざくら学習会
辰巳用水の見学 きくざくら学習会
次に、水路トンネルの内部を見学するため横穴のある場所に移動しました。写真では少し見にくいですが、中央右側から水が流れてきて、上方向に流れています。水位は20~30メートルぐらいですが、トンネルの高さも低いのでかなり圧迫感はあります。入口は非常に滑り易く、気をつけていたのですが結局滑ってしまいました。
辰巳用水の見学 きくざくら学習会
最後に、犀川浄水場に移動し、入口付近にある兼六園専用取水口を見学しました。
辰巳用水の見学 きくざくら学習会
辰巳用水は総延長11キロメートルで45メートルの高低さしかない。緩やかな場所は10メートルで4.5センチの勾配しかなく、水が流れるギリギリの勾配らしい。200年以上も前にこれだけの土木技術を持っていたことは本当に驚きである。
今日は雨模様で露出が低く、写真もピンボケが多くなってしまいました。柵の内部に入れたことは非常に貴重な体験でしたが、10月中の天候の良い日を選んで、もう一度コースを辿ってみたい。

金沢城の石垣 きくざくら学習会

今日は金沢城・兼六園研究会の「きくざくら学習会」でした。会員の的場氏による「金沢城の石垣」というテーマで本丸南面石垣から薪の丸石垣、玉泉院石垣、鼠多門橋跡石垣というコースで見学しました。
金沢城・兼六園研究会
石川県では現在、本丸南側の宮守(いもり)堀の復元を計画していますが、軍隊が被服庫を建設するために大きく姿をかえてしまいました。明治40年(1907)、ちょうど100年前ですが、本丸南面石垣が崩れて今の三段方式になりました。現在見ると辰巳櫓下石垣は4段あります。先の話と食い違いますが、4段目は軍隊が宮守堀を埋めるために土を崩したためにできた崖を土留めするために作ったものです。
宮守堀という名前も石垣秘伝書で有名な後藤彦三郎が勝手に命名したもののようです。
今日は、石垣の部分名称に関する勉強もしました。その中で「縁が切れる」というのがあるそうです。今でも日常会話で使用されるそれと同じです。
どういう部分を指すのかというと、石垣を2つの違う積み方を徐々にではなく、くっきり並べてしまう部分のことです。この状態は石垣の積み方としては邪道だということのようです。下の写真は薪の丸の石垣ですが、隅石が「切り込みハギ」で、すぐ横に「打ち込みハギ」がきています。「縁が切れる」例です。
薪の丸石垣
次の写真も同じ薪の丸の石垣ですが、こちらは「切り込みハギ」から「打ち込みハギ」へ徐々に変化していくように積まれているのがわかるでしょう。
薪の丸石垣
最後に、もう1つ縁が切れる例です。金沢城に来ると誰もが通る石川門の内側の石垣です。右手に「切り込みハギ」、左手に「打ち込みハギ」と違う積み方を見れる石垣名所の1つですが、ここも角でいきなり積み方が変わるので「縁が切れる」と言えるでしょう。
石川門石垣