地中に眠る秀吉時代の石垣 大阪城、市が本格調査へ

豊臣秀吉(1537~1598)の呼び名にちなみ、「太閤(たいこう)さんの城」として親しまれる大阪城。しかし、現在の石垣は徳川時代のもので、秀吉の遺構は約400年間、地中に眠ったままだ。天守閣復興から80年となる来年度、大阪市はその謎に迫ろうと、本格的な発掘調査に乗り出す。
財団法人「大阪市博物館協会」などによると、1583年に秀吉が築城を始めた大阪城は、徳川家康の攻略により、1615年の大坂夏の陣で落城。天守閣は焼け落ちた。現在の石垣(高さ最大32メートル、総延長11.2キロ)は、徳川2代将軍の秀忠が再築した。豊臣の石垣は地中に埋められ、その上に徳川の石垣や新たな天守閣が造られたという。
豊臣の石垣の一部が初めて確認されたのは1959年。堀の水が干上がった際に市が地盤調査をしたところ、本丸の地下約7メートルから見つかった。翌60年に幕府の大工頭の子孫宅で発見された豊臣時代の本丸の図面とも一致。天守閣前の広場に見学用の穴(直径約3メートル、深さ約10メートル、普段は非公開)が設けられたが、それ以外は埋め戻された。
市は、来年度予算案に調査費数百万円を計上する。豊臣時代の石垣は、加工した石を積み上げた徳川期のものとは違い、自然石を多用した3段構造。まずは、85年に現天守閣の南東約100メートルで発見された旧本丸の最上段「詰(つめ)の丸」の石垣の調査を始める。(asahi.com2011年1月2日付け記事より)
大阪城