近くながらなかなか行けなかった野田山の加賀前田家墓所に行ってきました。

これは下から登っていったときの入口。車の場合は直接上のほうの駐車場へ行けます。
この入口横には松夫人の実家である篠原家の墓所がありました。

観光客の見学場所のメインはやはり初代利家と松の墓でしょう。

隣り合って造られています。松の横には長男利長(二代)、利長の上には主家である織田家から利長に嫁いだ永姫、その横に利長の兄利久、日本古来の長幼の序や主従関係を墓の位置で表しています。

利長公の墓。大きな土饅頭の前に墓碑。参詣道入口に鳥居が立つのは明治になって神道に改宗させられたから。大名では日本最大級の墳墓です。

松の墳墓。他の墳墓を見ると、利家と松の墳墓の周りにも堀があったと思われます。

まだまだ紹介できますが今日はこの辺で・・・
急ぎ足ですべての墓をまわっても二時間半かかりました。藩主や生母以外にも子や乳母の墓があったりします。前田家以外にも隣接して加賀八家の横山家や村井家の墓所もあります。他の重臣たちの墓所もあることでしょう。

観光用駐車場からの眺め。木々を伐採してくれると金沢市内が望めるのになー。利家公もこの場所から見守ってくれるのに。
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富山藩藩主墓所 長岡御廟
川のように見えるが、これは牛ヶ首用水。加賀藩三代藩主前田利常の命により、新田開発を目的に掘削された用水です。

この用水が堀のように守る百塚山に富山藩初代藩主前田利次は、富山城の新城を建てる計画をしていました。実際には計画は頓挫し、後世に悲願だったこの地に富山藩藩主墓所が造られました。

真国寺は墓所守としてこの地に建てられました。

寺領には不釣り合いな鳥居から伸びる参詣道。元大名は明治維新により強制的に神道に改宗させられたので、墓は土饅頭の仏式であるのに、神式の鳥居が付きます。

現在の墓所には藩主以外の墓も多く立てられていますが、地図の上と右の大きな空間が藩主墓所となります。
上の空間には、初代、4代、5代、8代、9代、10代、11代、12代の8人、右の空間には2代、3代、6代、7代の4人の墓があります。11代までが旧式の土饅頭となっています。

参詣道の両側には灯籠が並び、

そのひとつを見ると「延宝四年」の文字が・・・他の灯籠も似たような時期のものが多かったです。

山門を入って正面は、初代利次公の墓となります。こちらは山門からの参詣道もそこそこの長さがあり、一基の面積も広いものです。

対して、右側の墓所。

山門正面は五代利典公の墓ですが、右側に二代正甫公の墓です。こちらは参詣道も短く、墓石近くの木々も墓参を邪魔するように大きくなっています。

元はもっと参詣道が長く、広い空間だったのかもしれません。一般への墓所の解放とともに、設置面積を広げるために削られたのかもしれません。

最近は大名墓所が観光地として整備されている場所も多くなったが、ここはまだまだ知られざる観光地となっているようです。
八戸南部氏墓所

長者山にある臨済宗南宗寺に来ました。南部氏墓所を探していたのですが、Googleナビでは大慈寺に案内されて場所を探すのに苦労しました。

南宗寺の山門は県重要文化財で江戸時代の創建。

正面の棟にはこの地を治めた南部家の家紋。

背面の棟には武田菱?と思いましたが、南部氏は甲斐の出身で南北朝時代に八戸にやってきたらしく、武田氏に関係するのでしょうね。

本堂裏の墓地の中に、県史跡の八戸南部氏墓所がありました。ようやく辿り着きました(・・;

藩の石高は大きくなかったので、大名墓地としては小さなものですが、

整然と五輪塔が並び、そこはやはり格の違いが感じられます。

八戸の隠れた名所でお詣りを
朝倉義景公墓を墓参

大野市にある朝倉義景公募を参ってきました。
朝倉義景は5代続いた一乗谷城下町を、織田信長に敗れたことにより追われ、一族の朝倉景鏡に誘われて大野郡に逃れましたが、逃れたところで景鏡の反逆に合い六坊賢松寺で切腹しました。

義景の五輪塔は家来や家族に守られるように墓所の中央に立っています。

右横には殉死した高橋景倍と鳥居景近の墓が立てられています。

墓所は右に休息所が整備され、その間に用水を流して堀状になっています。用水はこの西側と南側を流れていますが、もともと東側もあったのかどうか、もしあったとすれば、死して尚、堀に囲まれた強固な守りの中で安らかに眠っていることになりますね。
馬場美濃守信房の墓と蟻塚

大手門の近くに蟻塚があります。少し奥まった場所でわかりにくい場所ですが、蟻塚とは長篠合戦の多くの戦死者を埋めた場所で、のちに蟻が大量発生したので供養のために碑を立てて、蟻を封じこめたことに由来するようです。

附近には供養塔のようなものが多数あります。

大通りを挟んで、住宅地の奥を行くと、畑の真ん中に「馬場美濃守信房の墓」があります。

鳳来町指定史跡となっているこの地に、設楽原合戦の殿となった馬場信房の首が埋められていると伝えられているそうです。

武勇高き馬場美濃守に合掌
龍譚寺と井伊氏歴代墓所
浜松を朝出発し長篠に向かいましたが、途中大きな看板に誘われて寄りました。

ここは井伊保の龍譚寺です。

御堂が修復中でしたが、朝早いこともあり、有名な庭園は見れませんでした。

境内には「井伊直政公出生之地」の碑がありました。ここは徳川四天王の井伊家が治めた地なのです。

御堂の奥にある建物は・・・

重要文化財の井伊家霊廟でした。近くまで近づけない・・・

隣接する墓地には井伊氏600年の歴代墓所がありました。

そんなに広くはないですね。

井戸櫓と信康廟

ここは二俣城下の諏訪神社です。

境内には本日の武者行列の主役が朝早く集合していました。

神社の池に面して、隣接する清龍寺の井戸櫓が建てられています。

二俣城には天竜川沿いに井戸櫓がありましたが、武田軍により破壊され水の手を絶たれて落城したと言われています。
この井戸櫓は近年復元されたものですが、天竜川沿いの井戸櫓はこれよりも高いものだったのでしょうね。

清龍寺の本堂の裏手を登ると、

そこに徳川家康の嫡男で二俣城で自害した、岡崎三郎信康の廟があります。

御廟前の門は先の台風で屋根瓦でも飛んだのでしょうか?ブルーシートが掛けられて少し痛々しい姿でした。
前田秀継公墓所
富山県小矢部市にある前田秀継の墓所へ行ってきました。

山の中にポツリとある、わかりにくい場所ですが、案内看板も随所にあり、すんなりと到着しました。
現在「前田秀継公記念公園」となっています。

奥に100メートルぐらい進むと、山の中腹に見えます。

そのまま階段を進もうとすると、

蛇に行く手を遮られました。先日一乗谷山城でも遭遇しましたが、今年は蛇によく出会います。

蛇がなかなか退かないので、土手道を進みます。

一段上がると、そこは高徳寺跡です。昭和初めまで建物があったようですが、老朽化で取り壊されたため今は何もありません。

門をくぐって階段を上ると、

そこに3基の墓が並んでいました。

前田秀継夫妻の墓です。3基ありますが、1基は誰のものでしょうか?
前田秀継は前田利家の末弟であり、越中の佐々成政との攻防のなかで、津幡城主から木舟城主となりました。天正13年の大地震で木舟城が倒壊し、夫婦ともに圧死し、その子利秀により、ここ高徳寺に葬られました。利秀は秀継の跡を継いで木舟城主となりましたが、再建を断念し、今石動城に移りました。高徳寺も今石動の城下に移転しましたが、秀継墓所はそのまま残ったようです。

墓所には麓から一直線に上る急階段もありましたが、段が傾くなどしてこちらから上るのは無理そうです。