金沢城橋爪門復元へ 県が新年度から2014年度までに

藩政期の文献に名が残る金沢城の「三御門」が再びそろい踏みする。石川県は新年度、橋爪門の復元に向けた埋蔵文化財調査に着手する。金沢城公園では市中心部をつなぐ新たな玄関口として玉泉院丸跡の暫定整備も計画されており、現存する石川門、4月中旬に復元が完了する河北門と合わせ、2014年度の北陸新幹線金沢開業を出迎える。
橋爪門は、藩主が執務し、生活した二の丸御殿の入り口に位置する正門で、1881(明治14)年の火災で焼失した。一の門、二の門、土塀からなる枡形門で、このうち一の門は菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とともに01年7月に復元された。(北國新聞2010年1月1日付記事より)

城下町金沢 最古の絵図解読

石川県金沢城調査研究所は30日までに、1667年の金沢が描かれた最古の絵図「寛文七年金沢図」の解読を終えた。加賀藩士1757人の名前が記載され、上級武士だけでなく、身分の低い「掃除坊主」「壁塗り」などの名前も記されていることが判明した。5代藩主・前田綱紀が藩直属の奉公人の所在地を把握するために作成したとみられ、城下町の姿を紐解く貴重な成果となりそうだ。
寛文七年金沢図は、延宝年間(1673~81)に描かれた「延宝金沢図」とともに「城下町の様子をうかがえる全国でも第一級の史料」だが、縦560センチ、横501センチの大型絵図であることなどから、詳細な分析が進んでいなかった。(北國新聞2009年12月31日付記事より)

西内惣構 藩政期の姿来年3月に

金沢城を取り囲んだ内外二重の惣構のうち、金沢市主計町の西内惣構が来年3月、ほぼ藩政期の規模で現代によみがえる。惣構は広い堀と高い土居で外敵の侵入を防ぐもので、堀は用水などに姿を変えて現在も存在しているが、堀幅は狭められ、土居も崩されており、当時の威容が分かりにくくなっている。復元範囲は延長12メートルにとどまるが、市は城下町金沢の歴史に触れる空間として市民らに親しまれることを期待している。
復元されるのは同市主計町の緑水苑内の西内惣構で、藩政期の絵図や埋蔵文化財調査の結果に従って、堀の幅を約11メートル、深さを2.1~2.6メートルとする。土居は高さ約2.8メートルで、土居の上部に見学所を設ける。(北國新聞2009年12月28日付記事より)

富山城正門 石垣を確認

富山市は5日、同市の大手モールで、江戸期の富山城正門である「大手門」の石垣の一部を確認したと発表した。遺構として確認されたのは初めて。
大手門の石垣の一部は、大手モールと総曲輪通りの交差点の北側約10メートル地点で確認された。路面電車環状線化の工事に伴い市が大手モールを掘削したところ、昨年9月から今年7月にかけ、地下約90センチに石垣の一部が計4ヵ所で見つかった。
このうち、大手モールの西側からは、幅約3.2メートル、高さ2メートルにわたり4段分の石が検出。石は水平にそろえる「布積み」という積み方で、富山藩初期の1660年ごろに積まれたものとみられる。(北國新聞2009年10月6日付記事より)