小諸城に行くために大手門前駐車場に車を停めて散策です。懐古園駐車場よりこちらのほうが滞在時間を考えると安く済みます。

早速、隣りの大手門公園から見学です。桜も目的のひとつです。

小諸城は城域を線路で分断された城のひとつで、大手門と三の門のあいだにしなの鉄道が走ります。

大手門の二階は展示場になっていますが、10時から15時までとなっていて今回は残念ながら中の見学はできませんでした。

線路をくぐり三の門に出てきました。小諸城は風林火山放映時以来です。前回は隣りのホテルに宿泊したこともあり、夕方と早朝に見ましたが、ゴールデンウィーク初日としては観光客は少ないです。

三の門をくぐると懐古園入口の前に懐古館が建っていて、ここで日本100名城のスタンプを押せます。受付で販売されている「小諸城全図」(300円)もいいですよ。前回来たときはもうひとつ何か販売されていたような気がしますが・・・

懐古園に入ると、右側に高く二の丸を囲む石垣が並んでいますが、これは昭和50年代に復元された石垣です。

二の丸横から本丸へ至る虎口はカギ爪のように屈曲しています。

黒門跡の前に架かる黒門橋です。紅葉谷とも欄干に書かれていますが、

橋の架かる谷筋は本当に深い。

本丸隅に天守台が残っています。

天守台の斜め前に武器庫が復元されています。これは幕末の藩主牧野家時代のものです。

武器庫の横から地獄谷に架かる酔月橋を渡って、郷土博物館へ行けますが、前回訪れた郷土博物館は休館になってしまっていました。残念。

地獄谷というだけあって、紅葉谷よりさらに深い。落ちたらタダでは済みそうにありませんが、鉄製の橋でよかった。これが木製のつり橋だったり、強風が吹いていたら渡る勇気がないですね。

本丸は懐古神社となっています。

拝殿の前に、山本勘助が所持していたと伝わる鏡石が光っています。

天守台には何にもありませんが、

ここから見える本丸石垣と馬場の桜がきれいです。ちょっと遅かったけど。

馬場の一角に満開の小諸八重枝垂桜が一本ありました。濃い桃色が青空に映えます。

夕暮れの太陽を背にした枝垂桜もいいですよ。
夕方に来たのは桜のライトアップを見たかったのですが、桜も終わりかけ、さらにライトアップは中止ということで今回は諦めました。
投稿者: Tadashi
日本100名城スタンプラリー 小諸城
47個目のスタンプは小諸城です。

城址は懐古園となっていて、小諸駅からはこの三の門が入口となります。

アングルはこの三の門なのですが、何か違いますね・・・

と思ったら三の門の内側から撮ったものでした。窓の数と懐古園の扁額がないところが一緒です。

小諸城には上の三の門の他に、大手門が線路を挟んで残っています。こちらは中の見学ができるようなのですが、15時で閉まるようで残念ながら中には入れませんでした。
龍岡城 長野県の城館
田口峠を守る龍岡の地にやって来ました。直前の橋が工事中で遠回りさせられましたが、なんとか到着しました。

龍岡城は大給松平家により幕末の緊迫状態のなかで三年間で築上されました。

その最大の特徴は日本で2例しか存在しない西洋稜堡式の城郭だということです。もうひとつは函館の五稜郭。龍岡城が「もうひとつの五稜郭」とも言われています。

現在は内堀の5分の3、土塁の3分の2が残っていて、ぐるりと一周しても30分かからない小さな城ですが、小諸から田口峠を越える街道を押さえていました。

なぜこの時期に来たのか?それは山奥の龍岡は今が桜の見頃だからです。

土塁は地元の子どもたちの木ソリの格好の遊び場となっていました。楽しそうです。

少し曇ってきたのが残念です。

水堀がなくなった部分も土塁側の石垣はすべて残っているのがすばらしい。

水堀のなくなった堀石垣は間近で見ることができるのが良いです。水堀を渡ってくる敵を容易に上陸させないための跳ね出し(武者返し)もよくわかります。

現在の城内は小学校となっていますが、畑や住宅に囲まれた静かな場所です。

堀に映る桜も美しい。ライトアップはされていないようですが、ライトアップすればとてもきれいでしょうね。

よく見ると、水堀の残る石垣は一部が崩落しているようです。これ以上壊れないように修復してほしいです。

大給松平家は「陣屋格」であったので天守など城は許さない身分でしたが、陣屋や屋敷は建てられていましたが、廃城により現在は小学校校舎としても使用された台所のみが残っています。元の位置には小学校校舎が建てられているので、位置は往時とはずれた場所になります。

この太い梁柱が印象的な建物です。常時公開している建物ではないそうですが、花見シーズンで運良く入ることができました。ラッキー!

帰りは反対方向に行きましたが、途中何か石垣が見えてきました。

北の街道沿いを守る龍岡城の桝形でした。交通止めで運良く通りましたが、道路沿いのこの小さな施設が残されていることに感動しました。地元で大事にされてきたのですね。

龍岡城に行ったときは五稜郭だけでなく、枡形もお見逃しなく!
上田城 長野県の城館
風林火山以来の上田市です。

上田駅前の真田幸村像です。上田に来たらまずこれを見ないと!

市役所前通りには大手門跡が大手門公園として偲べます。

道路の形もだいぶ変わってしまっているようですが。

二の丸橋の入口に「上田城址」石碑が立てられています。

今回は二の丸の市民会館駐車場に停めましたが、もうひとつ南側に上田城跡駐車場があります。

上田城の南側は絶壁となっていて天然の要害と言えます。

西櫓横から上ることもできますが、この急坂の前で地元の犬の散歩をしていた方が上ろうとしたら、犬が嫌がって全く動こうとしない光景を見てとても面白かったです。
犬も厭う急坂かな

本丸跡は

その大部分が芝生公園となっています。

北東櫓台は鬼門方角であり、

内堀の角が鬼門除けとして切り込んであります。

本丸の一部は真田神社となっています。

神社奥には真田井戸が残っています。

北櫓と桜、似合いますね。

北櫓と南櫓、それをつなぐ東虎口櫓門は入場することができます。北櫓から入ります。

模型を置いてありますので、立体的によく理解することができます。

城門は平成六年に復元されたものですが、まだまだ新しいです。

上田城は確かに真田氏の居城でしたが、幸村が城主になったことはなく、それでも幸村が観光客に人気があるためか前面に出るのは仕方がないところですね。戦国BASARAの影響も大きいのでしょう。
上田藩主屋敷 長野県の城館
現在、上田高校の敷地となっている場所は上田藩主屋敷として館があったところです。

上田駅から屋敷跡へ向かう途中に現代地図に藩政期地図を重ねた案内図がありました。こういうのが町の隅にあるのはとてもいい!ですね。

中は高校なので当然入れませんが、内堀の一部が残っていてそれだけでも楽しめます。

門が残っています。

これはどの藩主の家紋ですかね?

石碑がないのかなーと思っていたら、来た方向とは反対に立っていました。

こんな歴史ある高校に通うのは羨ましいです。

堀は門の前の直線部と北部分に曲がって一部が残っています。

今日は天気も良かったので、亀たちも甲羅干しで気持よさそうでしたよ。
日本100名城スタンプラリー 上田城
上田城にやって来ました。風林火山放映時以来ですから年々経ったのでしょう。

前回はちょうど100名城スタンプラリーの始まる前でしたので、今回はまずこちらのスタンプをゲットしました。

アングルは本丸入口の東虎口櫓門、北櫓、南櫓の三櫓です。

北櫓と

南櫓になります。俯瞰したアングルなので、斜め前の市民会館の屋上からでも撮れれば思ったようなアングルになるんでしょうけど、惜しい。みんな入れるところからのアングルにして欲しかった。
荒砥城 長野県の城館
前日に戸倉山田温泉に泊まりました。

今日は晴天です。背後の山に戸倉山田温泉の案内板が立っていますが、右端に物見櫓が見えますか?

9時の開園に向かうように斜度のきつい坂道を登ってきました。軽だと時速30キロがやっとの急坂です。

荒砥城に着きました。ここは村上氏の一族、山田氏の山城です。
合わせるようにもう1組のカップルが入って行きました。

ソメイヨシノ桜は終わってしまいましたが、ちょうどスイレンが咲いていました。

これは八重桜?でしょうか

二の門に到着しました。

二の郭の入口に物見櫓があります。

建物が復元されて往時を偲ぶことができます。

櫓上からは上田方面がよくみえます。左手の山は村上義清の主城であった葛尾城です。

本郭に入りましょう。

本郭入口にも二の郭と同様の門が配置されています。

本郭からは千曲方面がこれまたよく見えます。

本郭には下から見えないように低い建物が立てられ、左が当主の館、右が兵舎となります。

当主の館の内部には一段高い段が設けられています。

一段高い本郭から二の郭はよく見通せません。
さて、ここまで見てきてテレビで見たことある光景だと思った方もいるでしょう。
そうです!ここは今年のNHK大河「江 姫たちの戦国」で落城する小谷城のシーンに使用されたロケ地なんですよ!
高梨氏館の桜 長野県の城館
真冬に一度訪れた中野市の高梨氏館跡です。

今年の春は遅れていますが、こちらでは正面入口横の桜が満開になりました。

他の桜は葉桜または半分近く散ってしまっていますが、この桜は遅れて満開、時折花びらがハラハラと散ってきます。

館内側から見ると本当にきれいですね。

前回は雪に埋れていた庭園跡も見えるようになりました。大きな枯山水の庭園です。

館内の桜並木は散って桜のじゅうたんになっています。
小谷城・大嶽城 滋賀県の城館
先月の続いて小谷城に登ってきました。前回は時間がなく、南側の峰を本丸までしか行けませんでしたが・・・

今日は9時に小谷に乗り込んで、まだ一度も登ったことのない北峰から登ることにします。

麓の清水神社鳥居から登ります。

5分ほど登るとお社に出ました。舗装はここまで、この先は山道です。

山城らしい道を進むと、20分ほどでようやく山崎丸に出ました。

土塁や空堀など良好に残っています。写真ではあまりお伝えできないのが残念です。山城の楽しさを知った身には楽しくてしょうがない場所ですね。20分ほど歩きまわっていました。

まだまだ峰の序の口だけど、ここでもかなりの高さで、いい眺めです。

さらに登って20分ほどでしょうか。第2の砦、福寿丸に到着です。先の山崎丸もそうですが、この砦は浅井氏により築城されたものではなく、応援に来た朝倉氏により築城されたものです。ここで今日2組目の2人組とすれ違いました。しかし、その2人組は案内板を少し眺めただけで下の方に降りていきました。

しかし、福寿丸の魅力はこの案内板の奥です。勿体無いことを!
山崎丸以上の深い空堀や高い土塁がめぐっています。ここでも時間を忘れて数十分歩きまわっていました。

山崎丸より高所の福寿丸では、山本山城や賤ヶ岳の奥に、雪がおおった越前の峰々が続いています。

さらに登っていきますが、さすがに疲れてきました。麓から1時間ほど登ったところで、南峰全体が見えてきました。いつもは反対側からこちらを見ているんだよね。
左奥に伊吹山も今日はきれいに見えます。

南北の峰に挟まれた清水道と城下が見えてきました。その先に虎御前山が見えます。この景色は南峰からは臨めませんね。

大嶽城がどこからか区別が付かなかったですが、最初の大きな郭の入口の内側には石積みがまばらですが残っていました。

登山道を外れて大きな竪堀や帯郭を見に行きました。春先は草が枯れてて縄張りが見やすいですが、枯れ葉が積もっていて斜面はとても厳しかった。

そうこうしながらも2時間ほどで山頂の大嶽城に到着しました。ここまですれ違ったのは5人。ここもまだ・・・・

と思ったら、大勢のご年配に一の郭は占拠されていました。今日、地元の歩こう会があったようです。

一の郭のまわりは先の砦とは違い土塁や空堀も規模が大きく、山城の醍醐味を感じることができます。

大嶽城のまわりは木々で覆われていて景色はよくないですが、北側の郭から丁野方面を望むことができました。眼下に丁野山、山本山城、竹生島が見えます。
やはり高いなー!
一仕切楽しみましたが、予定時間を大幅に超過してしまいました。南峰を下ります。下る途中、さらに多くのご年配とすれ違いました。みなさん元気だな。

途中、岩尾という場所に出ました。

ちょうど良い眺望所となっていて、南には伊吹山。

眼下には小谷城の南峰を見下ろすことができます。この景色は疲れが癒えますね。

大嶽城、月所丸、清水道、六坊の交差点まで降りてきました。ここから月所丸に進みます。途中狭い道もあり、邪魔になる木が切ってありましたが、足を踏み外せば急な斜面を転げ落ちるような危険な場所も。ご年配には無理ですね。

この砦も朝倉氏の築城のようです。

小さいながら畝状連続竪堀や連続する堀切など見所がたくさんありました。

この先は越前に続くようです。朝倉氏の退却用街道らしいです。
いろいろなタイプの砦や郭があって楽しいですね。

南峰も本丸までの間は前月は見ていないのですが、ゆっくり見ている時間はないのでさっと見てきました。と言いながら、誰も見に行かないような斜面の竪堀を見に降りたりしていたのですが、
ここは山王丸の大石垣です。現在小谷城で最も高い石垣ですが、往時は同規模の石垣がそこかしこにあったのでしょうね。

本丸前の石垣です。ここまで降りてくるとさすがに観光客が大勢来ています。さすがに注目スポットですが、山城なのにご年配を連れて回るのもどうかとは思います。同じことは天地人の坂戸城でも思いましたが。

今日の目的のひとつはこの桜馬場の桜でした。

が・・・一歩遅かった。昨日の風に吹かれたせいか葉桜です。

再び、桜馬場から見る琵琶湖の眺めです。観光客に蹴られて長政の石は違う場所に転がっていました。
さて、今日はここまで何枚かの景色をお見せしましたが、お気に入りはどこでしょうか?

麓に降りてくると、桜が満開です。あと数日持ってくれれば、桜馬場も・・・
いやーこれは言わないことにします。春の小谷、楽しかったです。
金沢城 春のライトアップ
金沢城と兼六園で観桜期である春のライトアップが始まりました。

とはいえ、今冬の厳しさと春冷えで開花が遅れていた桜はまだ咲き始めたばかりです。

全体では2~3分咲きといったところでしょうか?

暗くなるまでは日中も無料開放されている兼六園で待つことにします。

今日は観光客が少ないです。

今日は時間があったので、少し散策して石垣修築中の栄螺山(さざえやま)に上ってみました。今は工事中で霞ヶ池側からのみ上れるので、誰も上ってこず頂上でひとりゆっくりしていました。
それにしても、ここからの霞ヶ池の眺めはいいですね。

徐々に暗くなる霞ヶ池を眺めていました。

18時40分頃にはすっかり暗くなりました。
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今日は午後から雨がやみ風がないため、水の流れを止めた霞ヶ池にくっきりと唐崎の松が映っています。
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ライトアップではいつも人で身動きできなくなる徽軫灯籠の前も今日はまばらで、ゆっくりとアングルを決めながら撮影できました。

では、金沢城に向かいます。

壁を塗りなおした石川櫓はライトアップにも映えます。桜と三日月と一緒に

堀の水に映る橋爪門と塀もきれいです。
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もっと桜が咲いているときれいなのですが、ライトアップされると、つぼみでもきれいですね。

五十間長屋も堀に映ります。

人気の少ない河北門では二の門から望む菱櫓がいい。

復元された河北門は菱櫓と一緒に新しいスポットですよ。
日本100名城スタンプラリー 犬山城
45城目となる犬山城へ行ってきました。

どこにあるのかスタンプを随分探しましたが、ここです。
大手門にありました。

大手門の櫓は管理事務所となっています。

そこで見つけました。

ちょっと他のよりサイズが小さいのかな?

アングルは斜めかと思い、付櫓の右斜めからもう一度撮影してきましたが・・・
よく見ると、違いますね。

付櫓が左に延び、下の石垣が見えます。角度的にはこのアングルでした。

その角度とは、木曽川を挟んで犬山城を見たものです。ちょっとマニアック?
犬山城 愛知県の城館
東海北陸道の岐阜各務原ICを下りて、西に進むと「岐阜城」、東に進むと「犬山城」に至ります。共に国道21号(旧中山道)となりますが、こうして車で行くと、犬山城が岐阜城と尾張・三河の途上にあることがよくわかります。(ちなみに地元民でもないと、「各務原」ってなんて読むのかわかりません。「かかみがはら」と読むようですよ。)

国宝犬山城の石碑のある三の丸から登ります。

犬山城は天守を除いて廃藩置県のとき取り壊されてしまったので、大手門も復元となります。

桜越しに天守を捉えてみました。

天守の東南隅に付櫓がつくのが犬山城天守の特徴です。
明治24年の濃尾地震で付櫓が壊れたのを機に元城主で尾張藩家老の成瀬家の私有となりました。平成16年からは財団法人犬山城白亭文庫の所有となっています。

付櫓前には雷から天守を守ってきた神木が立っていますが、今はもう枯れています。

丸瓦は成瀬家の家紋「丸にカタバミ紋」です。

では、天守中に入りましょう。

入母屋破風の部屋

唐破風の部屋

石落としの部屋

地階石垣で地階を支える柱

最上階には成瀬家歴代の肖像写真が飾られています。

では、望楼の高欄に出てみます。天気が回復してきて今日は遠くまで見通しがききます。まずは本丸内。

東側の木曽川上流。

今日は運よく雪をかぶった御嶽山がよく見えます。

西側には岐阜城の金華山が

木曽川下流、ライン大橋の向こう対岸に伊木山が見えます。

南側には遠く、小牧山が見えます。
金沢城橋爪門 二の門の大きさを考えてみる
橋爪門二の門復元に向け、発掘調査が進む金沢城です。

二の門が復元されると、戌亥櫓台からみえる建造物がまた増えますね。

櫓の高さは、すでに復元されている橋爪門続櫓の1層目の屋根より大棟が少し高くなります。

絵にすると右端がこんな感じで連結します。この二の門は金沢城三御門のなかでは政庁であった二の丸御殿に最も近く、格式は一番上だったのですが、他の河北門や石川門と違い柱でのみ櫓を支える構造になっています。つまり、土台に石垣がありません。
そのため、復元には柱の礎石または根固めが出てくることが重要になります。

昔の絵図ではその幅は続櫓の石垣の幅の1.2倍ほどでしょうか。
少し脱線しますが、今は二の門と一の門との間の枡形を形成する土塁と塀を復元する予定になっていますが、橋爪門の特徴は何と言っても、二の門の後ろに存在するもうひとつの枡形です。他の城でもほとんどお目にかかれない鉄壁の防御施設を、続けてぜひ復元してほしいものです。

さて前から見ると、ほぼ今発掘調査を進めている範囲ですね。

そうすると、昨年復元された河北門二の門の半分くらいの大きさになるのでしょうか。
金沢城玉泉院丸暫定整備進む
2週間ぶりに玉泉院丸に行ってみました。

玉泉院丸の背景になる石垣群のまわり、特に上にあった木が伐採されて

かなりすっきりした感じになりました。

象徴的な色紙短冊石垣のあたりも伐採され、日差しに直接映えるようになりました。

暫定の池の輪郭はできてきたようですが、暫定整備では実際の池の輪郭などは再現されないようですね。
津幡城 石川県の城館
津幡町の四ツ角交差点です。

正面に見えるのが津幡小学校、津幡城のあった大西山です。

今は交差点となっていますが、元はT字路となっており、後ろ方向が「金沢」、左手に進むと「能登」、右手に進むと「越中」という加越能の三叉路となっていた場所です。

小学校へ向かってゆるやかに上り坂となっています。

入って左手の小高い小山の上に忠魂碑が立てられており、

上り口に案内板があります。上杉謙信の上洛、前田利家の末森合戦など戦国の節目に登場する城です。

忠魂碑の脇に「津幡城址」の石碑が立てられています。

この津幡小学校が建てられるときに山は大きく削られて平坦部を広げたため、往時の郭の様子は現況からはわかりませんが、校舎の高さほどもあったという話もあります。
この津幡小学校は老朽化のため、別の場所に新校舎がすでに完成しており、今年度取り壊される予定となっています。

小山から眺めるだけでもかなり向こうまで見渡せます。建物が低く、田園風景の広がっていたであろう戦国の世では重要な拠点であったことは容易に想像できます。
三刀屋城 島根県の城館
出張の帰りに、尼子氏の出雲十旗のひとつである三刀屋城を見てきました。ここを訪れるのは7年ぶりでしょうか?

城の脇を流れる三刀屋川です。川の向こう側に見える山が三刀屋城です。現在公園となっています。

橋を渡りすぐに城跡への道が続いています。自動車1台がやっと通れる幅の山道ですが、しばらく上ると

駐車場になっている馬場跡にでます。ここに停めて散策します。

駐車場には公園内の案内板があります。

馬場の隣に馬舎跡があります。

一角には石垣が残っています。

馬舎跡はかなり広い郭となっています。

上って行き馬舎跡の1段上の郭がもう1つの駐車場となっています。見晴らしの良い郭です。

さらに上っていくと、本郭のまわりの石垣が見えてくる。

面によっては良く残っています。

自然石をそのまま使用する野面積みですね。

本丸に入ると右手に物見櫓台が残っているのが目立ちます。

近くにここの城主であった三刀屋氏の子孫の方による顕彰碑が立てられています。

物見というだけあって、ここからの眺めは最高です。

川向うを通っていたであろう街道の先を見渡すことができます。

物見櫓の見どころは景色だけではなく、この櫓台付近に放置された石垣の石です。まさに破却の跡ですね。

大きな石も多いです。

では本郭跡を見ていきます。

見どころは本郭と二の郭の間に残る一文字土塁ですね。石垣も残り、往時は壮観なものであったことが想像できます。

脇に二の丸から続く道があります。

道沿いに放置された石には、石を割った矢穴の跡がくっきりと残っています。城内には数少ないですが矢穴の石を見ることができました。

二の丸から本丸へは土塁にぶつかり、直線では入れないです。
現在の公園は、道が本丸に入り二の丸へ至るのですが、本来は二の丸から本丸に入ったはずであり、このあたりは公園整備で破壊されてしまっているのかもしれません。
しかし、郭や土塁がよく残る良い城跡ですね。
松江城の夜景 島根県の城館
大手前駐車場は17時に閉まるので駅前のホテルに行き、晴れていたので歩いてライトアップを見に行きました。

橋と宍道湖岸のホテルをまずは撮りましたが、ちょっとライトが少ない。

駐車場から出るときに櫓にライトが当たっていたので期待してやってきましたが、期待通りのきれいなライトアップです。
市役所方向から3つの櫓と奥に天守がライトアップされていますが、雨もあがり風もなかったこともあり、水堀に映る石垣と櫓がきれいです。

暗いので足元に気をつけながら城内に入ります。櫓を見上げて撮ってみました。

本丸の脇から石垣越しの天守です。手前下が天守ですが、ここはライトアップされていなくて、また外灯も届かなかったのでつぶれてしまいました。天守が浮いてみえますね。
本丸にも入りたかったですが、さすがに解放されていませんでした。できればもう少しそばで撮りたかった。寒い中写真撮っている人もライトアップ見ている人もいませんでしたが、松江に行ったら見に行くことをおすすめします。

一夜明けて、松江駅前で川が見える部屋だったので外を見ると朝霧がかかっていました。内湖があると平野でもこれほどの霧が立つのですね。びっくりです。
写真は7時半の状況、7時頃は橋の手前まで霧が立ち込めていました。

8時にようやく向こう岸の建物が見えてきました。これだけの霧が立つと、敵が移動していても目の前に来るまで全く気がつかないですね。
松江城 島根県の城館
山陰の名城、松江城にやってきました。震災の影響でしょうか?連休にもかかわらず、お客さんは少なかったですね。

大手口木戸門跡の石垣上に石碑が立っています。こんなところに立っていると見逃す人も多いだろうに。

木戸門を入ると広い馬溜跡が広がり、右手に折れて大手門となります。

この3月19日から松江では開府400年記念博覧会が始まりましたが、全体的に自粛ムードでイベントが多数中止となっていました。

二の丸上の段には松江神社が鎮座しています。祭神は松江藩松平家初代の松平直正公です。のちに、東照宮を合祀、つまり徳川家康公。さらに松江開府の堀尾吉春公と、松平治郷(不昧)公を配祀されたようです。結果的に4人を祀っているということになりますね。

ちょうど始まったイベントで、開府記念博覧会のキャラクタ「あっぱれくん」を見れました。

二の丸上の段には、トイレがありますが、ここに番所があったということで番所風になっています。

その前に井戸があります。その奥が大広間です。

二の丸上の段には、南櫓

中櫓

太鼓櫓の3櫓が2001年に復元されています。

南櫓横の南口門です。三の丸とつながっていた門です。

上の段から本丸につづく二の門です。礎石が残っています。

本丸一の門です。この先は有料です。

本丸に入ると先に天守が見えます。

天守に入る前にまわりを回ります。東南隅の武具櫓跡です。

そこからは二の丸上の段や

二の丸下の段を見渡すことができます。

武具櫓石垣の下、三の門からみた天守です。ちょっと木が邪魔。

入口近くから見上げると、前の付櫓がアクセントになって迫力あります。

付櫓の入口は鉄張の扉になっています。

内部の柱は特徴的な寄木柱となっています。肥え松の一本の柱の外側に板を揃えて鉄輪で締めています。鉄釘や鉄輪は朽ちる可能性もあるので、木組みで建てることの多い城郭建築ではめずらしいのではないでしょうか。

最上階からの眺めは最高です。宍道湖方向ですが、天候がよければもっと良かったのに。

東方向には、19日に開館したばかりの松江歴史館が見えます。

北西方向には北の門に隣接する乾櫓のあとが見えます。今は手前の木が枯れているのでとてもよく見えますね。

西方角から見ると全く違った雰囲気になりますね。

二の丸下の段、米蔵跡であったところです。

北の門から出たところ、馬洗池です。

脇虎口ノ門です。

そこを出ると橋の前に松江歴史館が広がっています。

北惣門に架かる橋、この広い内堀は松江城の特徴でもあり、観光資源でもあります。

橋のたもとに堀の出入りをする通路が残っています。

県庁のある三の丸は北側のみ堀が残っています。

三の丸から見る松江城は、手前に内堀、二の丸の石垣、南櫓、中櫓、太鼓櫓、奥に天守と見事です。風のない日は水堀に石垣や櫓が映ってこれまたきれいです。

おみあげに「松江大亀伝説」というのを買いました。何か由来があるのかなと思い調べてみると、
松江市外中原町にある月照寺には松江藩松平家の墓所があるが、6代藩主宗衍の廟所にある寿蔵碑の土台となっている大亀がいる。大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれ、下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという。(ウェキペディアより)
暴れたのに退治されたところまで書いてないけど、最後にはどうなったのかな?まあそういう由来のある菓子です。
日本100名城スタンプラリー 松江城
44城目は松江城です。

スタンプの図柄は、写真にもよくある天守を南西方向から撮ったアングルです。

ちょっとズレているような・・・

今年まで「松江開府400年祭」が開催中です。イベントの一部は震災で取りやめとなったようです。

松江市では松江城を国宝にする運動をしています。
新宮谷の史跡 新宮党館跡、尼子氏奥津城、山中鹿介幸盛屋敷跡 島根県の城館
月山富田城を見たあと、歩いて新宮谷を見て回りました。

入口に地図があります。館跡が墓が点在しています。小山が多くある深い谷筋です。
新宮谷は尼子経久の次男国久の一族が住んだところであり、新宮党と呼ばれました。

この山が「尼子氏奥津城」と呼ばれていますが、

「城」とついてはいますが、「き」と呼び、新宮党一族の墓所と伝えられています。

新宮党は尼子氏の先兵として領土拡大に多大な貢献をしましたが、甥の晴久により攻め滅ぼされました。

新宮谷の左の谷筋を進むと、一段高い平地が見えてきます。

今は太夫神社境内となっています。

平成20年に島根県指定史跡となりました。

太夫神社は新宮党一族を祀っています。

神社横には国久やその子らの墓と伝わる墓石があります。

ここには確かに戦があったのでしょうが、今はのどかな風景ですね。

右の谷筋には山中鹿介生誕地と伝わる「山中鹿介幸盛屋敷跡」があります。今は高台にある墓地の奥になります。

石碑が立っています。

「山中鹿介幸盛屋敷趾」と書かれています。

敷地の奥に井戸らしい窪地を発見しました。

石碑裏には敷石らしき石もあり、奥は一段高くなっています。このあたりも猪に掘り起こされて荒れていました。