金沢城  本丸拡張は「寛永の大火」以前

金沢城の本丸一帯は寛永8年(1631)の大火より前、元和年間(1615-24)に大規模な拡張造成が行われていたことが27日、県教育委員会金沢城研究調査室の発掘調査で分かった。本丸が北側に突き出すように拡張されており、大量の盛り土が確認できた。これまで、城郭の構造が定まったのは大火後とされていた。
また、本丸三十間長屋の石垣下部が始めて見つかり、建てられた時期は出土品から寛永の大火後と分かった。石垣は昨年確認された三階櫓の石垣とつながっていた。接続部の積み方から、17世紀後半、長屋と三階櫓の石垣が同時に改修されたことも確認できた。(北國新聞2006年7月28日)

河北門 埋蔵文化財調査に着手

石川県は、金沢城の河北門復元に向けた埋蔵文化財調査に着手した。かつての金沢城の実質的な表門だった枡形の門について、位置や形状などを優先的に調査する。基本設計と実施設計を同時に進め、来年度の工事着手、2009年度末の完成を目指す。
河北門の復元に向け、県は今年度中に専門委員会を発足させる方針。埋蔵文化財調査の結果も参考にしながら、外部の専門家らが史実を尊重した復元のあり方を検討する。(北国新聞 2006年7月13日付記事)

梅鉢紋瓦 富山城で出土

近世富山城築城当時の1605(慶長10)年ごろに製作されたと見られる、前田家の家紋「梅鉢紋」が入った瓦が、石垣上の土中から6日までに見つかった。
加賀藩から富山藩が分かれる前の慶長年間に作られた梅鉢紋瓦は、これまで金沢城でも出土していない。富山城では現在、伝統的工法による石垣の改修工事が行われており、梅鉢紋瓦は城の東側の石垣上を覆う土の中から計8個が出土。いずれも直径約14センチ、厚さ約4センチの軒丸瓦で、1639(寛永16)年に富山藩が分かれる以前に用いられた形状の紋が入っている。表面が平たくなっていることから、金箔を施していたとも考えられる。(北国新聞 2006.7.7付け記事より)

利長墓所の外堀遺構か?休耕田に江戸期の溝

高岡市教育委員会が金沢市の前田家墓所との一体的な国史跡指定に向け調査を進めている前田利長墓所付近の休耕田で、江戸時代に築造されたとみられる溝の一部が見つかった。市教育委員会は、利長墓所の周囲にあった外堀の一部である可能性が高いとしている。
外堀関連の遺構が見つかったのは初めて。国宝瑞龍寺に使用されたものと同じ江戸期の燻瓦(いぶしがわら)のほか、陶磁器、漆器などの遺物も多数確認された。
確認された溝は利長墓所の外堀の一部分とみられる。市教育委員会によると、明治後期の墓所の周辺地図「利長廟域図」に記載されている外堀の位置とほぼ一致するという。(北國新聞2006.6.20付記事)

七尾城跡に金の付着した「るつぼ」出土
戦国城下町で全国初出土

石川県埋蔵文化財センターは30日、戦国期の七尾城跡から出土したるつぼに、金に銀や銅を混ぜた合金が付着していたと発表した。るつぼは金属を溶かすために使用された土製の容器で、金の溶解に使用されたるつぼの発表は全国で六例目。戦国期の城下町からの出土品では初めてとなる。
同センターでは、七尾城を居城としていた戦国期の大名、能登畠山氏が城下町に職人を集め、金の精製から加工を行っていた可能性を示す貴重な資料としている。
るつぼは出土した場所は、竪穴状の遺構や鉄を加工した際の破片が見つかっていることなどから、七尾城下の鍛冶工房群だったと見られる。今回の発掘では、るつぼとともに、金箔や金箔を張った板、刀装具や具足の一部が見つかっており、同センターではこれらの出土品に合金を使用した可能性があるとしている。
(北國新聞2006年5月31日付記事より)

金沢城 河北門09年度復元に向けて来年度に着工

金沢城の実質的な表門だった河北門が2009年度末に復元される。石川県は今年度中に実施設計と埋蔵文化財調査を終え、来年度に工事に着工する。水堀化される宮守(いもり)堀に突き出す鯉侯櫓台石垣の復元に向けた調査も始まる。
石川県は今年度中に県民参加型PR事業実施計画も策定する。復元作業のボランティア参加や、埋蔵文化財調査と工事の現場見学、公開講座、ガイドツアーなどを通じ、河北門を皮切りとする「平成の築城」第二幕への県民の意識高揚を図る狙いである。海鼠塀の瓦を県民の寄付とするなど、募金方式による財源調達の在り方も検討する。金沢城復元整備計画を紹介するリーフレットも作成する。
(北國新聞2006年5月31日付記事より)

富山城の石垣調査

富山市文化財センターは18日までに、富山城の石垣の調査に着手した。初めて石垣を掘り返し、内部構造などを調べる。調査は、富山城の東と南側の石垣が対象で、補修工事に合わせて実施する。石垣の一部を一度取り外し、内部を調べるなどした上で、積み直す。調査、工事期間は9月末までの予定である。(北國新聞 2006年5月19日付記事より)

前田家墓所に金沢城と同じ最新石垣技術

江戸中期、金沢市野田山の前田家墓所に造られた加賀藩十代藩主の墓に、金沢城の石垣築造に用いられた当時の最新技術が導入されていることが、15日までの金沢市埋蔵文化財センターの調べで分かった。
石材と石材をつなぎ合わせるための金具で、同センターは、ほとんど研究が進んでいない前田家墓所と金沢城の関連を考える上で貴重な発見としている。
金沢城と同じ技術が用いられているのは、1786年(天明6年)に亡くなった十代藩主前田重教を埋葬した石室。石室はブロック室の石材を組み合わせて造られており、石材と石材を強固につなぎ合わせる「ちぎり」という鉛製金具が使われていることが、文献調査から明らかになった。
この「ちぎり」は金沢城の石垣では、1759年(宝暦9年)の「宝暦の大火」で焼けた河北門などの修築で初めて使われたとされ、金沢城で導入されたばかりの最新技術が、藩で最も重要な場所の一つである藩主の墓所に応用されたとみられる。(北國新聞 平成18年5月16日付記事より)


今回の発表を見て、初めて石垣をとめる金具を使った工法があったことを知りました。びっくりです!!

民家に「プチ博物館」構想

石川県鳳至郡能登町の内浦地区(旧珠洲郡内浦町)の有志らが、民家や事務所等の一角を活用した古文書館の開設に向けて準備を進めている。土蔵に眠る貴重な宝を地域振興に役立てようと、加賀藩祖前田利家の書状など約100点が集まった。
有志は今年2月、民有「歴史文化」資産の保存活用を考える会を発足させ、地区内の民家数軒に個人の文化財を展示する「プチミュージアムの郷構想」を勧めている。活動の第一弾として、会員が所有する貸しホールで、能登地方の十村役(とむらやく)だった真頼家(さねよりけ)の古文書館を整備する。(北國新聞 2006年4月24日付記事)
個人的にも楽しみですね。開館したら利家の書状を見に行こうと思います。

前田家、利長墓所を国史跡に

金沢市と高岡市は、加賀藩歴代藩主の墓がある金沢市野田山の前田家墓所と、高岡ある市に二代藩主利長墓所の一体的な国史跡指定を目指し、両市の文化財担当者が始めて協議し、今後連携して取り組んでいくことなった。
文化庁は、「関連するものは一つの史跡として指定するのが基本的な考え方だ」としており、既に山口県の萩藩主である毛利家の墓所は萩市と山口市が一つで国史跡に指定されている。