有力者の屋敷跡か 宮保館跡 40メートルの堀確認

石川県埋蔵文化財センターは16日、白山市宮保町の北陸新幹線建設事業用地内にある宮保館跡・宮保B遺跡(鎌倉・室町時代)で、15世紀前半ごろに掘られたとみられるコの字状の堀を確認したと発表した。規模は一辺約40メートルと推定され、有力者が屋敷を構えていた可能性があるという。
これまで建物や堀の一部は確認していたが、今回の調査で新たに構造や規模が明らかとなった。現段階で、文献などからも屋敷の所有者は推定できないという。(北國新聞2009年7月17日付記事より)

金沢城 河北門復元

金沢城 河北門復元
今日は丑寅櫓台から見た河北門工事現場を紹介します。
金沢城 河北門復元
外観がほぼできてきた河北門二の門はぱっと見て替わり映えしませんが、今日は屋根工事をやっていました。金槌の音はまだまだしていますが、見えない部分の工事が多いのか、残念ながら作業を見学できる場所は少ないですね。
金沢城 河北門復元
1月と5月に開催された記名会イベントで記名した瓦や板は、1年前に国重文に指定された「金沢城土蔵」に保管されている話が地元新聞で紹介されていました。ということは昨年お盆に公開されたイベントは今年はないようです。

金沢城 玉泉院丸発掘調査

いもり堀に続いて玉泉院丸の様子を見に行きました。
金沢城 玉泉院丸発掘調査
発掘現場は昨日の大雨でかなり水が溜まっています。
金沢城 玉泉院丸発掘調査
2つの穴の他に、もうひとつ穴が掘られていました。ここには水が溜まっていて底は見えません。
金沢城 玉泉院丸発掘調査
初めの穴のひとつに、たくさんの石が見えます。泉水の敷石のようにも見えますが、体育館があった頃の土台工事の詰石かもしれません。どちらでしょう?前者であれば泉水復元の第一歩が開けたということで、楽しみです。

金沢城 いもり堀鯉喉櫓台

今日は昼から天気が良くなりました。青空の下の石垣は映えますね。
金沢城 いもり堀鯉喉櫓台
足場の組まれた石垣台の後ろの土盛りは作業が終わったようです。
金沢城 いもり堀鯉喉櫓台
今日はクレーンが動いています。石垣のところで何か相談しています。
金沢城 いもり堀鯉喉櫓台
と思ったら、1個石を外して、クレーンで吊り上げました。
金沢城 いもり堀鯉喉櫓台
金沢城 いもり堀鯉喉櫓台
少し合わなかったようで、ドリルで削り始めました。
金沢城 いもり堀鯉喉櫓台
足場を内側から良く見ると、斜めに木組みがされています。高さや傾きから予想すると、石垣の勾配を示しているようです。写真ではわかりにくいので、ぜひ現場で確認してください。思ったよりも高いですね。
金沢城 いもり堀鯉喉櫓台
辰巳櫓より眺めた作業現場です。ここが一番の特等席ですね。
本格的な石積み作業は14日からということで、11月頃には櫓台が完成するようです。積み増し部分は4.8メートル、使用する石材は800個。いまから待ち遠しいです!

7月例会 「花開いた百万石文化」

今日は石川県立美術館の嶋崎館長を迎えて、「花開いた百万石文化」というテーマで講演会が開かれました。
7月例会 「花開いた百万石文化」
広坂休憩所の部屋は珍しく盛況でしたが、話の内容も加賀藩の文化が公家文化であるのか?武家文化であるのか?という点についてとても興味深い話でした。
藩政期末期には江戸、大坂に次ぐ人口を誇った加賀藩の金沢は、その半分以上が武家という町ではありますが、その文化は典型的な公家文化であり、桂離宮を筆頭とするような質素を良しとするものであったようです。
五代綱紀公から十七代までのコレクションである「尊経閣文庫」ですが、その本体はあくまで東京であり、金沢で見られるのはその一部です。私は何と言っても、物の百科辞典といえる「百工比照」のすべてを一度見てみたいのですが、戦後の一時期は金沢にあったそうです。
加賀百万石の文化講座
嶋崎館長は勤続50年、1カ所の勤続としては日本一長い館長だそうですが、9月6日に一般向けに講演を行います。
今年は石川県立美術館で初めて「加賀百万石の文化講座」が4回開催される予定で、館長は第3回が予定されています。
他にも、現在の前田家当主による「加賀前田家を語る」や、石川県立歴史博物館元学芸員の長谷川氏による「有職故実と日本文化」、地元歴史家であり著作も多い野村さんによる「溶姫の人生」など楽しみな講演があります。

富山城 戦国期の井戸跡

富山市の富山城址公園で進められている発掘調査で、戦国期の富山城内に造られたとみられる井戸の跡が9日までに見つかった。当時の神通川に近い本丸の北東部の一角で、深さは1.6メートル以上と推定される。
藩政期以前の富山城の遺構は数が少なく、同市埋蔵文化財センターは「謎に包まれた中世富山城の生活の一端を示す貴重な遺構」としている。(北國新聞2009年7月10日付記事より)
富山城址公園
先月撮影した庭園整備中の発掘現場付近

重文・二条城の障壁画 作業員が誤って踏み抜く

京都市は7日、国指定重要文化財である二条城の障壁画「紙本金地著色竹林群虎図(しほんきんじちゃくしょくちくりんぐんこず)」46面のうちの1面(縦約1.6メートル、横2.1メートル)を作業員(25)が過って踏み破り、金箔(きんぱく)部分に二つの穴(縦18センチ、横17センチと縦29センチ、横25.5センチ)が開いたと発表した。市によると、15万円ほどかければ修復可能だという。
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市元離宮二条城事務所によると、障壁画は徳川家光時代の1626(寛永3)年に狩野派の絵師が描き、二条城二之丸御殿遠侍一之間に飾られていた。
市は72年から随時、障壁画の修復・模写作業を続けている。破損した障壁画は7日午前、二条城内の模写室に移動させるため作業員が壁から取り外した。しかし、雨が降ってきたため、搬出口を雨よけのシートで覆う間、一之間の出口付近の床に置いていたところ、作業員が過って障壁画の上の方の部分を踏んだという。一之間には作業員8人、学芸員2人、修復会社の関係者2人がいた。
同事務所の奥美里所長は「貴重な文化財を不注意で傷つけ申し訳ない。最大の注意を払って取り扱うべきだった」と話している。
二之丸御殿には約3千面(うち954面が重文)の障壁画があり、うち1035面が修復・模写の対象になり、昨年度末までに624面の作業が終わっている。 (asahi.com2009年7月7日記事より)

金沢城 三階櫓に再建計画

17世紀初頭から金沢城の象徴として本丸にそびえ、宝暦の大火(1759年)で焼失した「三階櫓」に天保年間(1830~44年)、再建計画があったことが確実になった。金沢工大環境・建築学部の増田達男教授と石川県金沢城調査研究所の正見泰調査研究専門員が5日までに三階櫓の新たな図面を見つけ、計画を裏付けるものと確認した。現存史料が少ない三階櫓は謎が多く、辰巳櫓と同時期の再建計画確認は金沢城史の新発見となる。
見つかったのは「中ノ重小屋指図」「上重小屋組図」「下重小屋妻小屋ノ図」などと題された建物構造図8枚。この三階櫓は、金沢城にあった三重櫓のうち三階櫓を除く菱櫓、橋爪門続櫓とは形が異なる。書かれていた寸法が2000年に同市内や東京の建設会社で見つかった三階櫓図の寸法と一致したため、三階櫓と判明した。(北國新聞2009年7月6日付記事より)

放生津城へ

近くの新湊博物館へは何度か来ましたが、出てくる頃には暗くなる日ばかりだったのでなかなか機会がありませんでしたが、今日は曇りながらまだまだ陽は高い、ということで初めての放生津城へ行ってきました。
放生津城
現在、放生津城跡は放生津小学校地となっています。
放生津城
この広いグラウンドで過去数回の発掘調査が行われました。ここは鎌倉幕府の守護所として使用され、室町から戦国時代には神保氏の居城となりました。そのため、太平記に出てきたり、室町幕府10代将軍足利義材が京より逃れて滞在したりして、歴史上は越中でも指折りの有名な城なのです。発掘調査では漆器や陶器のかけらが見つかっています。
放生津城
いまは地下に眠る城跡なので全く面影はなく、何か記念になるものはないものかな?と歩いていると、グラウンドを挟んで校舎と反対側に石碑と案内板を見つけました。
放生津城
石碑は「城跡」とだけ書かれていて、全くどこかわかりませんが、案内板はかなり詳細に書かれていました。
足利義材
近くの放生津橋には足利義材の像が欄干に据えられています。1つは坐像ですが、1つは馬乗像ですよ。お見逃しなく。

天地人を訪ねる旅 in 魚津

梅雨の中休み、今日は良い天候となりましたので、朝から魚津へ行ってきました。高速1000円有難いですね。
天神山城
魚津ICから15分。ここは天神山にある吉田記念郷土館です。
(上に魚津歴史民俗資料館がありますが、ここは近代が中心です。)
天神山城
山の中腹にあるので、1階は駐車場、2階が展示室になっています。常設展では天地人のパネル展もやっていますが、
天神山城
見所は魚津城の復元模型です。魚津城の構造だけではなく、城を避けるように折れ曲がった北陸道、寺町の寺院群など当時の情景がよくわかります。
天神山城
3階では現在企画展「上杉家と魚津」を開催中(11月15日まで)です。ここ、実は無料なのであまり期待はしていなかったのですが、松倉城、春日山城、御館に加えて、富山城と小出城の発掘出土遺物が展示されていて、さらに魚津町惣絵図もあって、これは500円以上の価値はありますよ。でも無料です。見逃す手はないでしょう!
天神山城
一通り見終えてから、天神山の頂上を目指しました。徒歩5分ほどで頂上に着きます。ここが上杉景勝が魚津救出のために布陣した「天神山城」の本丸跡です。
天神山城
鉄塔が立てられているので後世に掘削されている可能性もありますが、相当に広いです。右奥に進むと土塁が残っていました。
天神山城
本丸からの眺めは木に遮られてあまり良くないですが、なんとか魚津市内を撮影するものの今日は「もや」っていますね。
天神山城
郷土館では相当なものを無料で見せていただいたので、受付で魚津市発行の「魚津の文化財」を購入しました。
さらに、「魚津城の戦いミニタオル」(350円)と「魚津城の戦い湯呑み」(700円)を購入しました。湯のみはホームページにも紹介されていましたが、熱い湯を入れると「愛」の文字が浮かび上がるという面白い仕掛けがあります。頑張っている魚津市商工会員の売上にちょっとだけ貢献です。
続いて、決戦の場「魚津城」へ
魚津城
この道は魚津城本丸の大手門へ続く道です。
魚津城
魚津城跡は現在、本丸部分がほぼすべて大町小学校となっています。大河ドラマでは5月にクライマックスを迎えた「魚津城の戦い」ですが、ここ魚津城跡はまだまだ熱気冷めやらぬ感じでした。放映直後は大勢の人が詰めかけたそうですが、二月経った今日は午前中はゼロで、自分と一緒に入った家族連れが最初のお客さんだったようです。
校舎の一部を使用して魚津城の戦いのパネル展示をしています。旗もたくさん立っていて、学校だけどいいのか?と思うくらいに地元では盛り上げようという雰囲気が伝わってきます。
魚津城
校舎の前には「魚津城跡」の石碑が立っています。
魚津城
現在は、特別に校舎の屋上から城下を見せてもらえます。晴れてて良かった!
魚津城
遠く、景勝が布陣した天神山城跡を臨むことができます。中腹の白い建物がついさっき行ったばかりの吉田記念郷土館です。近いですね。
魚津城
屋上からグラウンド方向を見ると、寺町寺院群、奥に埋没林博物館の白い建物が見えます。グラウンドの隅に土塁のような高まりが見えますが、児童用のスキー山だそうです。
皆さん、ぜひ秋までに一度魚津に訪れてくださいね。今だけの見所盛り沢山ですよ。できれば晴れた日に。
魚津城
グラウンド横の道路は内堀跡ですが、狭くなった側溝が内堀の名残?です。
魚津城
そこから細い路地を曲がるとそこが二の丸跡です。
魚津には松倉城跡群もありますのでまた行きたいですね。