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出版社:平凡社
発行日:1998年4月初版
ページ数:167P+特別付録「仙台城下絵図」
定価:2,800円+税
オススメ度:★★★☆☆
書評:
東北・北海道の16の城下町に関して古地図と現在(発行当時)の地図を対比しながら古地図を楽しむという趣旨の本である。城郭や城下町が好きな人、古地図が好きな人は楽しめます。

カテゴリー: 城郭
木越光琳寺遺跡 一般県道向粟崎安江町線道路改良工事に係る埋蔵文化財発掘調査報告書
富山県福岡町中世城館調査報告書
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編集・発行:福岡町教育委員会
発行日:2001年3月31日
ページ数:76P
定価:1,500円(5%税込) (2009/8/29更新)
オススメ度:★★★★☆
書評:
「本書は、町内に残された中世城館の歴史を紹介し、縄張図を網羅したものです。町内の城館数は八箇所確認されており、平野部に残る木舟城は県指定史跡として中世末期の富山県の歴史を理解する上で欠くことができないものです。また、西山丘陵に残る赤丸城は、越中三大山城に次ぐ規模をもつとされる山城です。これらの城館は、当町が中世という時の中で重要な位置を占め、まとまりをもった地域であったことを示しています。」
2006年度末に富山県の中世城館跡調査報告が発行されて、県内の調査が完了したが、本書はその調査に先駆けて福岡町が独自にまとめたものである。富山県の報告書は解説が簡潔であるが、本書は一城館あたりの解説も充実している。福岡町は合併で高岡市となったため、現在となっては入手も非常に困難である。同地区の城館調査をするときはまず参考にすると良いでしょう。
お城がすき まつもとが好き 松本城をめぐる文化財 文化財の知識シリーズ第3集
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編集・発行:松本市教育委員会
発行日:1993年10月29日
ページ数:133P
定価:1,500円(5%税込)
オススメ度:★★★☆☆
「本書は松本城とそれにかかわりのある文化財をまとめて編集・執筆したものです。ここには江戸時代以前から今日に至るまで、領主や城主が、武士が、そして民衆、私たちの先人たちが営々と築き上げ、伝えてきた文化財を多く収録してあります。」
書評:
写真はカラーで版も大きく見良い。その分、文章が少ないので図録として楽しみましょう。松本市立博物館1階ミュージアムショップで販売していたようですが、現在は品切れです。
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平出遺跡群発掘調査報告書 県道長野・荒瀬原線バイパス工事に伴う発掘調査
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発行:牟礼村教育委員会
発行日:1992年3月30日
ページ数:92P+図版40P
編集:平出遺跡群発掘調査団
定価:1,000円(5%税込)
オススメ度:★★★☆☆
「平成の時代を迎え、村びとの悲願でありました北国街道改良計画が実現の運びとなり、平出地籍は県道の西側にバイパスが建設されることになりました。平出遺跡群が、この計画線上に点在していることから、県教委のご指導のもと、平成元年に遺跡確認の試堀調査を行い、その所在を確かめながら調査地点を4カ所にしぼって、平成2~3年にわたり本発掘を行いました。」
書評:
牟礼村(現在の飯綱町)平出地区の遺跡群の発掘調査報告書である。長野市と境を接する平出地区には川中島合戦で上杉軍が砦を築いた髻城山(髻城、もとどりじょう)がある。本丸は長野市側であるが、城山の北半分、当時の領主は平出側だったということで、歴史的経緯の解説の中で髻城の解説と縄張図が載っている。
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矢筒城館跡(第2次発掘) 長野県牟礼村矢筒城(空堀)遺跡発掘調査報告書
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発行:牟礼村教育委員会
発行日:1988年10月31日
ページ数:18P+図版6P
編集:矢筒城館跡発掘調査団
定価:1,000円(5%税込)
オススメ度:★★★☆☆
「飯綱病院建設着手にあたり、『矢筒城館跡』の発掘が、昭和54年に行われ、一定の成果が収められてまいりましたが、このたび、この病院の東隣りに、飯綱健康管理センターの建設が計画され、宅地造成のため、矢筒城空堀の一部に損傷をうけることになったため、空堀の構造調査を主目的とした発掘調査が、矢筒城第2次発掘として行われました。山城の空堀の構造は、発掘例が少く、調査前から注目されるところでありましたが、予想通りの成果が得られ、室町、戦国時代の空堀に、一つの解明が得られましたことは、大きな喜びであります。」
書評:
矢筒城の空堀発掘調査報告です。城館全体の発掘調査は昭和54年に行われ、第1次発掘調査報告書が発行されているが、現在は入手できない。
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徳川大坂城東六甲採石場Ⅰ -芦屋墓園拡張工事に伴う奥山刻印群K地区内の事前発掘調査- 芦屋市文化財調査報告第31集
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編集・発行:芦屋市教育委員会
発行日:1998年3月31日
ページ数:62P+図版16P
定価:不明
オススメ度:★★★☆☆
「芦屋市街地の北緑、表六甲の山裾の標高130メートルの高台に芦屋市墓園があります。この墓園の拡張工事の計画が市担当部局より提出され、この区域内は貴重な文化財として天下の大坂城の石切場の一角に該当することから、教育委員会社会教育部文化財課では、工事前に関係石材の保護や記録保存を目的とした発掘調査を行うことになりました。本書はその成果物であり、調査は平成5年初秋に行われておりましたが、遺憾ながら、報告書として刊行するまでの出土品の整理や原稿執筆の時期に、不幸にも阪神・淡路大震災が起こり、諸作業が完全に頓挫してしまいました。このたび、ようやく成果の一端が整い、実施された調査の概要がまとめられましたので、ここに公にいたします。」
書評:
徳川家が外様大名に行わせた大坂城石垣の天下普請の採石場の一つの発掘調査報告書です。本書の対象となった地区は刻印から長州毛利家の採石場と考えられる。本書は配布のないものだと考えられるが、運良く古書として入手することができた。
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金沢城跡石川門前土橋(通称石川橋)発掘調査報告書Ⅱ
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編集・発行:石川県埋蔵文化財センター
発行日:1998年3月30日
ページ数:247P+図版106P
定価:非売品
オススメ度:★★★☆☆
書評:
「本報告書で第1分冊の報告を再録するのは、金沢御堂時期の遺構の時期と重ならないものの、土橋が金沢御堂の時期に構築されて江戸時代に継承される。そして、さらに発展的に使われており、金沢城そして金沢御堂で重要な施設であったことが推測される。したがって、本報告でもその歴史的展開をふまえる必要がある。また、先の第1分冊では遺物写真を載せることができなかったので、年代の指標となるような、そして問題となるような遺物は、本書でできる限り実測図面も再録した。第1分冊の報告であつかったのは、沈床園調査区と、石川門調査区、兼六園調査区の3箇所で、白鳥堀調査区の金沢御堂期の包含層直上、すなわち土橋の盛土までであった。なお、第1分冊は、近世近代編として編集したものの、沈床園調査区の6層以下、石川門調査区の盛土6が16世紀後半の金沢御堂期に属するものであるが、記述の便宜上そこで報告した。したがって、詳しい調査成果は第1分冊を参照していただきたい。」
金沢城石川門前の発掘調査報告書の2分冊目である。本書では主に白鳥堀側の調査結果と遺物を掲載している。調査では、金沢御坊時代の土橋、藩政期の土橋、辰巳用水の木管などが発掘された。
本書は残念ながら一般販売はされておらず入手できなかったので、図書館で借りて一部コピーを所持している。
<2011/1/22追記>
昨年古書を入手しました。最近ようやくポツポツと古書に出てくるようになりました。
金沢城跡石川門前土橋(通称石川橋)発掘調査報告書Ⅰ
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編集・発行:石川県埋蔵文化財センター
発行日:1997年3月30日
ページ数:260P+図版41P
定価:非売品
オススメ度:★★★☆☆
書評:
「金沢城石川門と兼六園をつなぐコンクリート製橋梁を『石川橋』という。明治43年に起工され、明治44年に完成している。当該箇所は、それまでは百間堀と白鳥堀を区分けする土手であった。つまり、百間堀と白鳥堀の水を抜いて、土手に石川橋というトンネルを作って道をつけたのである。この道は現在県道寺町今町線といい、通称『百間堀通り』と呼ばれ、兼六園下交差点から広坂交差点へ抜ける主要な幹線道路として激しい交通量がある。さらに、人間もまた、観光客をはじめとして徒歩で広坂に通勤する人々、あるいはそこに通って通学する生徒の主要な交通路でもあるが、歩道がないという構造的欠陥がある。」
金沢城石川門前の発掘調査報告書の1分冊目である。本書では主に土橋そのものと百間堀側の調査結果を掲載している。調査では、金沢御坊時代の土橋、藩政期の土橋、辰巳用水の木管などが発掘された。
本書は残念ながら一般販売はされておらず入手できなかったので、図書館で借りて一部コピーを所持している。
<2011/1/22追記>
昨年古書として入手できた。本書は写真が多いので特に重宝する。
金沢城跡車橋門発掘調査報告書
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編集・発行:石川県埋蔵文化財センター
発行日:1996年3月29日
ページ数:56P+図版18P
定価:非売品
オススメ度:★★★☆☆
書評:
「金沢城の周りには、百間堀・白鳥堀・大手堀・いもり堀などが掘られ、それには主として土橋が架けられ、石川門・尾坂門・西丁口門・甚右衛門坂門・鼠多門・車橋がある。この度発掘調査を行った車橋門跡は、最も広い水面をなした百間堀といもり堀の間に設けられたもので、城域の南端部に位置する。金沢城の南は、小立野台地や笠舞段丘に続き、山沿いから攻めてくる敵勢に対しては、非常に重要な防備地点に当たる。また、車橋は本丸・東の丸の最も近い地点に位置することも、この橋のもつ特徴の一つといえよう。ただ、車橋門を通り抜けても、その前面には高い石垣が立ちはだかっており、直ちに主郭部には通じず、左手の御花畑と長屋群を通り薪の丸に入るか、右手の水之手門に回り鶴の丸に入るのが城内へのコースとなろう。だから金沢城の正門は、あくまでも石川門や尾坂門だったのであり、平時の車橋は通用門としての役割を果たしたものと思う。また、本来的には水位の異なる百間堀といもり堀を水堀として維持するための仕切り土手として必要だったのであり、橋と門は二次的に付加されたものかも知れない。」
調査区は当時テニスコートで現在はいもり堀として復元予定の場所の東端である。車橋はいもり堀と石垣の間にある歩道の入口付近にあった。本発掘調査の南側は後日いもり堀発掘調査のときも再度調査され、現在は鯉喉櫓台跡として復元を待つばかりになっている。車橋は現在百間堀が道路となっている現況からも復元の可能性は極めて低いので、本調査から往時の姿を想像してみるのも悪くない。
本書は残念ながら一般販売はされておらず入手できなかったので、図書館で借りて一部コピーを所持している。