
橋爪門の発掘調査の真っ最中ですが、

かなり深く掘り下げて調査しているようですね。

ブルーシートでよくわかりませんが・・・
篠山城 兵庫県の城館
丹波篠山城に来ました。

夏休みですが、それほど人出は多くないですね。

掘は綺麗に整備されていますが、石垣は夏草が繁茂している場所もありました。

鉄門址に木製の冠木門があり、その奥に復元された大書院が建っています。

まずは外回りから始めます。大書院の前にひとつ井戸跡が残っています。

そして、二の丸庭園跡の中にもうひとつ井戸跡が残っています。

二の丸庭園の奥に埋門跡が残っています。埋門なので門に向って下がっています。

大書院は2000年に復元されて、以前来たのは7年ほど前でしたか?まだ白木の映える頃だったと記憶していますが、風雨に晒されて古びてきました。

二の丸庭園から本丸へ入ると、青山神社が鎮座しています。

本丸の東南隅に天守台が残っています。天下普請で築造された篠山城の天守台は大きく立派です。実際に天守が作られたことはないですが、よい物見台になりますね。

天守台から東方向には播磨富士と呼ばれる八上城が見えます。

八上城は波多野氏の居城で、明智光秀の母を人質にした命乞いが叶わず、逆上した波多野家臣により母が殺されてしまったという悲しい逸話の残る地です。一度登ってみたい。

大書院は有料ですが、中では篠山城が築かれた経緯のビデオ放映や、復元された大書院の中を見学することができます。
上段の間で襖絵などが復元されています。

上段の間を側面から守る武者隠しの間はこんなに狭いのですよ。

篠山市のマンホールは篠山城の石垣を描いています。
今日は外堀や馬出を見て回ることができませんでしたので、次回はゆっくりと城下をまわってみたいです。
日本100名城スタンプラリー 篠山城
40個目となるのは丹波篠山城です。

帰って来てからスタンプのアングルどおりの写真を撮っていないことに気が付きました。

大書院の東側この行き止まりから振り向いて、

この木戸の向こう側からこちらの大書院を向いたアングルですね。

大書院の南側、この「火天の城」でも使用されたアングルだと思い込んでいました。

スタンプは大書院内の受付にあります。受付の上には100名城の賞状が飾られていますよ。
三木城 兵庫県の城館
雲龍寺の駐車場に車を停め(ここに停めるのがいいと道の駅観光案内で教えてもらいました)、雲龍寺の前を三木城本丸へ向います。

雲龍寺です。今でも広い寺域が残っています。

本丸へ向う途中、防火貯水池のある一段低い敷地がありました。

当時のものかどうかわかりませんが、下の郭とかなりの落差があったことがわかります。

本丸跡の一部は稲荷神社となっています。

三木合戦と

三木城の絵馬が奉納されていました。

神社裏は広い空き地となっていましたが、

その隅に別所長治公の石像が立てられています。

その横の一段高い丘は、従来天守台跡と伝わっていましたが、発掘調査で櫓跡程度であることがわかっています。
その一番高い平坦地に長治公の辞世の句が書かれた石碑が立てられています。

そこから見渡す景色は面前の川です。本丸跡から川に向って急峻な崖地となっています。
このことからも三木城が台地の先端に築かれた城であることが実感できますね。

稲荷神社前には三木市埋蔵文化財センター?があり、休日でも三木城を中心とした遺物の展示をしています。三木合戦に関係する砦跡の遺物や、地形模型などもあり、無料ですが見ごたえはあります。

最後に雲龍寺に戻って、駐車場近くにある別所長治公首塚を見ました。手前の石積みは三木城の外堀に使用されていた石を集めて作られたそうです。

日本100名城スタンプラリー 明石城
スタンプラリーの旅、最終日。39個目となる明石城を訪れました。

アングルは写真でよく見る二つの櫓(坤櫓、巽櫓)を正面入口方向から見たものですが、間の塀が随分と短く描かれています。

実際はこのくらい間が離れています。

スタンプは、明石公園サービスセンター受付にありました。明石駅を降りて正面入口を入ったところですが、車で行って図書館駐車場に停めた私にはとても遠くに感じました。

時間があれば巽櫓に入り、そこから坤櫓を眺めると良い景色です。
しかし、明石公園に占める面積から甘く考えていましたが、1時間では回りきれないほどの遺構が残っています。すべて見て回るには2時間は余裕を持って行きたいですね。
明石城 兵庫県の城館
JR明石駅前の明石公園内に明石城跡があります。

こちらは薬研掘です。かなり幅広の掘です。

東ノ丸横の石垣沿いを降りていくと、石垣の高さが意外と高いことが実感できます。

石垣沿いに進み、二ノ丸と本丸の間の階段を上ります。

二ノ丸から明石駅方面の眺めはこんな感じです。

本丸に入ると、巽櫓があります。

こちらは中に入ることができ、中の本格的な木組を見ることができます。

窓からは反対の四隅に建つ坤櫓を見ることができます。

坤櫓のほうは今は中に入ることができません。

稲荷曲輪から降りて、坤櫓を見上げるとベストビューですね。

芝生広場から眺める2つの櫓のアングルもベストビューです。

公園内にあるマンホールにも明石城が描かれていますよ。
御着城 兵庫県の城館

姫路市にある御着城公園にやってきました。

公園前には「御着城址」の石碑が立てられています。

ここ御着城は黒田官兵衛の仕えた小寺氏の居城でした。

公園内には城郭風の姫路市東出張所が建てられていて、

その前の公園内には黒田官兵衛の顕彰碑が立てられています。

そんなに広い公園ではないなー、と思っていたら入口の案内板に

隣りの小学校の校庭から土塁と堀跡が発掘されていることが記載されていました。

この校庭と公園とすぐ横を走る国道2号線の向こう側を含めて、かなり広い城域であったようですね。
第27回全国城郭研究者セミナー in 姫路
今年も全国城郭研究者セミナーの季節がやってきました。今年の開催地は姫路市です。
会場は姫路城前の「イーグレひめじ」です。

開始前に姫路城を歩き回っていたので、少し遅れて到着しましたが、真夏日の気温のなか歩いたので着いた頃には汗が止まらない状態でした。

1日目の今日は7本の調査・研究報告がありました。

新しい研究成果や持論を聞いてとても興奮しました。
7本目の報告では、神奈川県の権現山城について、従来の定説や遺跡推定地に拘らず、実際には場所が違っているという報告があり、とても興味深いものでした。

イーグレひめじの4階は、姫路城天守を正面に見ることができる最高のビュースポットになっていますよ。
姫路城中濠 兵庫県の城館
JR姫路駅を出ると通りの向こうに姫路城が・・・

学生時代以来となるでしょうか?いやいやもう一度来たような

姫路城に向かって歩いていくと、途中で石垣を見つけました。これは何かと思っていたら、中堀沿いの門跡でした。

ここは「中ノ門跡」です。水堀は道路になっていますが、石垣は道路建設に影響のなかったものは残されたようです。
ということで、まだ歩いたことのない中濠沿いの門跡めぐりを始めることになりました。

西に向かっていくと、間もなく門跡が見えてきました。

枡形を構成する石垣もある程度残っているようですが、道路建設のため少し削られているようであるのが残念です。

ここは「鵰門跡」(くまたかもんあと)です。

さらに西に向かって歩いていくと、「埋門跡」があります。
ここはとにかくハトが多い・・・・って城めぐりには関係ないですね。

二の門(当地ではどういうのかわからないけど)の前の一の門との間の枡形を確認できます。この枡形の回りの石垣はかなり低いところまで取り払われているものの、姫路城の門跡の形式は多彩ですね。

この埋門跡が西南隅となります。北へ向かいましょう。

次は「車門跡」です。

この門も枡形の部分がよく残っています。

左側の門の入口が右側を流れる船場川と直接接していて、船で出入りできたようです。

一の門(当地でそういうか分からないけど)は船場川に架かる橋から出入りしたようです。現在も同じ場所に橋が架けられています。

南側の水堀は今は短くなって空掘となっていますが、

北側の掘は今も満々と水を湛えています。

水堀と川の間の散策路を歩いていくと、姫路城が見えてきました。

大通り沿いの歩道に石碑が立てられています。

この通りを行くと大手門となります。

北側の歩道に渡ると、北側の掘と川はまた雰囲気が変わりますね。

掘から川に流れ込む場所で鴨たちが一生懸命に何かを突いていました。魚でもいるのかな?

ここは「市ノ橋門跡」ですが、残る石垣は道路に対して斜めです。

というのも、門の北側と南側で掘の幅が違っていたからでしょうか。

実際の門の方角はこんな感じですね。

この市ノ橋門に隣接して、

広大な好古園がありますが、まだ入ったことがありません。

好古園を過ぎると、内堀が見えてきました。

西の丸の渡櫓の修復用足場も見えますね。
と、ここで姫路城内に入るところですが、それは別に話すとして、もうひとつ門跡を紹介します。

ここは「総社門跡」です。

枡形の中を道路が通っているので、囲まれた門であるという痕跡は残念ながら全くないですね。

道路の向かいの市民会館の入口脇に石垣が残っていますが、草に覆われて気付きにくくなっています。
門の形からここに石垣があるのはおかしいので、位置をずらして保存されたものかもしれません。
日本100名城スタンプラリー 姫路城
今日は全国城郭研究者セミナーの日です。今年の開催地は姫路です。
ということで、38個目は世界遺産姫路城です。

アングルは大天守を小天守側から斜めに見たところですね。

といっても、今年から平成の大修理が始まっていて、

今は大天守の南側半分まで足場が組まれた状態です。

今の見学路は天守前の備前丸まで来て戻っていく経路です。

スタンプは有料入り口横の管理事務所にありますよ。
姫路城 兵庫県の城館
世界遺産でもある国宝姫路城です。

桜門橋を渡ると、大手門です。

大手門は大きな高麗門です。

正面に家紋が5個付けられています。これは誰の家紋でしょうか?

大手門をくぐって三の丸広場にでると、正面に大天守を拝むことができます。

大きなクレーンが何本も建ち、足場の鉄骨が大天守の半分くらいまで組みあがりました。

工事計画を見ると、今年度中は天守の中に入れないようですね。

有料ゾーンへ入ります。入ってすぐに「菱の門」があります。

菱の門をくぐり左手に進むと、「中村大佐顕彰碑」がありました。
中村重遠大佐は、城の恩人です。陸軍が城郭を駐屯地とするために建造物を破壊しようとするのを陳情で辞めさせた人です。姫路城や名古屋城がこうして守られました。名古屋城は残念ながら戦争で焼失しましたが・・・

そこから西の丸へ入り渡櫓へ向かうとこちらも足場が組まれていました。

工事中でも中に入れますよ。

とはいえ、中は足場に近づかないように通路は制限されていました。

長い渡り廊下を歩いていくと、最後に化粧櫓に来ます。ここは将軍家から嫁いだ千姫が生活した場所と伝えられています。部屋には人形が置かれ、観光客にもわかりやすい工夫がされていました。

外から見た化粧櫓です。

さあ天守へ向かいましょう!まずは「はの門」へ向かいます。

「はの門」をくぐると、二の丸、この「にの門」越しに見る西小天守は絵になりますね。

そして「にの門」への階段です。

そして「ほの門」へ

「ほの門」を通って振り返ると、「水一門」があります。

隅櫓と乾小天守に挟まれた「水二門」です。

くぐると本丸(備前丸)への最後の門、「水三門」です。

大天守の南面と東面は徐々に鉄骨が組まれていますが、小天守側はまだ天守を見ることができます。

備前丸へ出ると、半分は工事中で通り抜けることができません。
ということで、引き返します。

「はの門」のあと、「ろの門」を抜けます。

そして「いの門」を抜ければ「菱の門」に戻ってきます。

有料ゾーンを出てくると、出口に「天守の庭」があります。ここは大天守の礎石配置を再現しています。

三の丸広場の隅に「大天守大柱展示場」があり、

昭和の大修理で交換された西大柱が展示されています。
日本100名城スタンプラリー 竹田城
37個目のスタンプをゲットしました。半年ぶりとなるスタンプラリーの旅です。

ここは兵庫県の和田山町にある「天空の城」ラピュタ・・・・、いやいや竹田城です。
竹田城が「天空の城」と呼ばれる理由は、山上に築かれた石垣です。麓から見ても森の上に突き出た石垣は異様ですが、山中の和田山では秋に朝靄が発生することがあり、その靄から山上が突き出るとまさに雲に浮かぶ城のように見えます。

竹田城の夏は草が繁茂して石垣が隠れている部分もあり残念でした。

スタンプのアングルは、おそらくこの写真奥の天守台から手前を見たものだと思いますが、今日は時間もなく、また体力に限界を感じてあまり歩きまわることができませんでした。

スタンプはJR竹田駅に併設された観光情報センターにありますが、

こちら山城の郷でも押すことができます。自分はこちらで押しました。
ちなみに観光情報センターでは、竹田城のガイドブック、ポストカード、写真、ヌンチャク袋などのグッズを購入することができますよ。パンフレットもありますのでぜひお立ち寄りください。
竹田城 兵庫県の城館

山上の石垣がすばらしい播磨竹田城です。

駐車場から一番遠い入口から入ります。

2度目ですが、ここは石垣がすばらしいですね。

北千畳から大手門と城下を見下ろしてみました。高いなあー

三の丸から二の丸と本丸方面を撮ってみました。夏は草深いですね。

三の丸を通って、弐の門を通りすぎたところで一度引き返しました。

もう一度の登城は南千畳からです。

正門の向こう側に見えるのが天守台です。

今度は花屋敷から駐車場へ向かいました。
さて、なぜ2度も登城したのか?というのは一緒に上っていた母が迷子になったからです。(自分が迷子か?)急な崖も多いのでとても心配しましたが、舗装道路から上ってきて、なぜ花屋敷から下りるのかと思いましたが、今回は草深かったので疲れたこともあり諦めて、次回は春先に来ましょうかね。
国吉城 福井県の城館
姫路へ向かう途中で、昨年春オープンしたばかりの若狭国吉城歴史資料館に寄りました。

佐柿町奉行所跡に建設された資料館の入館料は100円!安いですね。

ここでは国吉城を中心に佐柿町の歴史を学ぶことができます。国吉城の立体模型もありますよ。
資料館は夏休みとはいえ、平日の午前なので観光客は自分たちだけでしたのでゆっくりと見学できました。
資料館を見て帰ろうと思っていると、受付で今日は本丸近くで発掘調査が行われているとのこと・・・
登るつもりはありませんでしたが、調査中と言われれば登らないわけにはいきません!!

ということで登り始めますが、寝不足気味もありバテバテです。6分ほど登ったところで佐柿の町並みが見えました。

さらに登ると、本丸下段の堀切のところへやってきました。
今回の発掘調査はこの堀切のようです。

堀切の両側に石垣が出ています。

かなり立派な石積みですね。中世の山城でも堀切のみ石垣をもったものは見たことないですが、もしかすると郭をぐるりと石垣が巻いていたのかもしれませんね。破却されてここだけ残ったのであればわからないこともないな。

すぐ上の本丸へ向かいます。本丸の入口は虎口のようになっているようですが、手前に「石垣」の看板があるけど、どこ???

と思っていたら、側面の急な崖の部分に一部石積みが残っていました。自然石を積んだ形式は堀切の石積みと同じ形式です。

本丸から見た佐柿の町並みです。

本丸はけっこう広いです。

中央付近に「国吉城」と書かれた小さな石碑と案内板があります。

本丸奥には一段高くなった土塁が残っています。その下に堀切が残っているようですが確認できませんでした。

戻ってくると休憩が終わって、発掘作業が始まっていました。

下りてくる途中に伝二の丸跡があります。資料館前の案内板では出丸跡となっていました。

一段低い平坦地へ下りてみると、ここには土塁と門跡が残っていました。

反対側の郭から見ると、この門跡はまっすぐには進めない巧妙な仕組みになっていることがよくわかります。

麓には館跡があります。前回の訪問時はこの館跡の発掘調査が行われていました。館跡のまわりは石組み水路が見つかっています。
国吉城はこの麓の館と山頂に築かれた山城という、中世の典型的な平時の館と詰めの城形式です。

資料館に戻ってきました。奉行所の石垣も復元されています。

整備された駐車場には「国吉城址」の立派な石碑が新設されていました。本丸へ登らない方はこの石碑の前で記念撮影するのでしょうね。
金沢城 いもり堀のヌシは何処に?

いもり堀鯉喉櫓です。夏休み初めの土曜日ですが、この暑さ!
さすがに誰もいませんね。

掘を満たす水は濃い緑色です。暑さで水藻が大量発生しているようです。

地元新聞で先の大雨の後、いもり堀に鯉が現れたというニュースが載っていました。
掘の水は辰巳用水の分水で、兼六園瓢池から流れてきていますが、そこに住む鯉が大雨のなか泳いできたということでした。

しかし、探せど鯉は見つからず・・・・
暑さで深いところに身を隠しているのでしょうか?それとももう移動したのか?
よく見ると小魚はたくさんいるようでした。
金沢城 玉泉院丸発掘調査 続報

発掘調査の続く玉泉院丸ですが、今も奥の斜面近くで作業が続いています。

斜面の奥は色紙短冊石垣になっています。

ちょうどその真下に当たる斜面をかなり深く掘り下げているようです。
金沢城橋爪門 発掘調査始まる

平成13年に復元された金沢城の橋爪門の一の門です。いつもと何かが違いますよ?
・・・・・

そうです。門が閉まっているのです。開けっ放しの門が閉められた貴重な一枚ですが、ここ数年はこの状態が続きます。

というのも、金沢城三御門の最後を締めくくる事業として、橋爪門の二の門復元事業が始まりました。

案内地図も「発掘調査中」に変更されました。

一の門内側は植木が撤去されて、通路幅以上に広範囲に発掘調査が進められていました。

本丸戌亥櫓跡から見る風景の中にも発掘調査現場が入るようになりました。

今日は残念ながらシートが掛けられており、現状どこまで進んだのかわかりませんでした。
河北門 寄進記名内容をようやく確認!
夏休み最初の土曜日ですが、この暑さのせいか街中への人出はいまひとつのようです。

今日はチャンス!かも?と内心思いながら、金沢城河北門へやってきました。

暑い昼下がり2時。ちょうど案内の人だけしかいない

4月の完成式以来、ずっと人が多くて恥かしかった、記名内容閲覧機を操作することができました。

まずは平瓦から・・・。閲覧カードをかざして、自分の記名した平瓦の使用場所を確認します。

次に壁板の使用場所を確認します。

壁板は河北門の内側、右奥です。

場所を照らし合わせると、ちょうど消火器の後ろでしょうか。

そして、平瓦の使用された一の門へ移動します。

こちらは一の門の左側、二の門近くになりますね。やっと場所がわかってスッキリしました。
村岡山城 福井県の城館
何年かぶりに福井県勝山にある村岡山に登ってきました。

前に一度訪れたとき、どこから上ったのか記憶になかったので、とりあえず山を登るような道を進むことにして、村岡神社の本堂の脇の道を進むことにしましたが、けもの道はあるものの、夏場であるので草が非常に大きく育っていました。

前は石仏のある道を進んだ覚えはあったのですが、そこまで長い道のりがあったかもしれない・・・
と思いながら、草道を進むこと20分

ようやく見覚えのある石仏の道に到達しました。

今来た道はこんな感じで前回とは違う回り道を進んでしまったようです。

頂上への道には菩薩像の石仏が非常に多く立てられています。

最初は一向一揆戦乱の舞台となった山城を鎮魂するために、子孫たちにより立てられたものかと思っていました。下りた後わかったことですが、この菩薩像は四国八十八霊場めぐりを映した霊場を再現したものです。

途中の道は急で足場も悪く、雨で濡れた日は滑ってとても危険です。
登りはじめて40分ほどでようやく頂上に到達しました。

一段高い本郭の入り口には掘にかかる土橋を当時のまま見る事ができます。

本郭には南側に物見台、北側に土塁など土の高まりをはっきりと確認できます。

本郭から眼下を見下ろすと、福井県恐竜博物館が見えます。

本郭の北側から東側、南側とぐるりと掘がめぐっています。

本郭の北側には、手前に郭1、奥に郭2の2つの平地を確認できます。

郭1から郭3への入り口両側には土塁が残り、

郭3に入って、郭4へ至る入り口は虎口がきれいに残っています。

郭4と郭1の間の土塁、その土塁の郭4側に掘が掘られています。

その郭4から北側の斜面を見下ろすと・・・・

畝状たて堀が残っています。ちょうど草刈が終わったところだったのか、4つの畝がはっきりと確認できました。

畝の間に入るとこんな感じですが、攻める側は畝の間を進むことになり、隣の畝へ移動することや、連絡を取ることを困難にします。
一向一揆が立てこもった村岡山に、敵対していた平泉寺の僧兵が攻めて、反撃されて撃退されたのもこの畝状たて堀が活躍したのかもしれませんね。
この出来事のあと、村岡山は勝山と呼ばれ、今の勝山市の元となりました。

本郭の東側に二の郭があり、南側に一段高い物見台が残っています。

二の郭の南側に大きく段を下げながら、4つの郭(郭5~郭8)とそれぞれの間に、堀切が残っています。

こちらはあまりに草深いので郭6より先は進むのを断念しました。

帰りは霊場の道を戻ってきました。途中草も生えない歩きやすい道が一部あります。

神社に戻ってくると、間違いにようやく気付きました。
神社の泉の道(中央の道)を行きは進んだのですが、こちらは遠回り、近道は石段の先(右側の道)ということです。旧ですが、こちらが近道です。

神社の入り口には「村岡城址」の看板が・・・ そう言えば、前はここから登ったんだった。

鳥居の脇には看板も立てられています。村岡小学校の裏という記憶しかなかったのですが、登るときは村岡神社をめざしましょう!
「日本100名城スタンプ」を集めていますか?
Potoraの7月13日のアンケートは・・・

「日本100名城スタンプ」を集めていますか?
というものでした。私は「現在、集めています。」に回答しましたが、その結果は、

集めていないし、興味もない。 50,135票(84%)
集めていないが、興味はある。 7915票(13%)
その他 993票(1%)
現在、集めています。 211票(0%)
集めていたが、やめてしまった。 116票(0%)
集めていた(達成!) 81票(0%)
81人も達成していることが驚き(本当か!?)ですが、集めた経験のある人が400人ほどしかいない。
アンケートに答えている人が女性が多いであろうことを差し引いても、興味がある人を引き込むあと一押しが必要ですね。