中津城の市への売却交渉がついに決裂したそうです。
今は最後の城主、奥平氏の子孫の方が経営する会社の経営となっていますが、長年の赤字により売却交渉が行われていたのではないかと思います。
天守は観光用の模擬天守で元々あったわけではありませんが、民間へ売却ということになれば大きくその姿を変えてしまうことも考えられますね。
私はNHK大河で「大奥」が放映された2008年に九州旅行に行ったときに、最後に見納めにしようと見てきました。どうなることやら???
朝日新聞社
http://www.asahi.com/national/update/0706/SEB201007060012.html
来年の大河ドラマ「江」の配役が決まる
来年のNHK大河ドラマは浅井三姉妹の三女で、後の徳川秀忠の正室となった「江」の物語ですが、配役が一部決まったようです。
主役は「上野樹里」さんです。
三姉妹
長女の淀(茶々)
「宮沢りえ」さん
次女の初
「水川あさみ」さん
京極龍子(秀吉の側室)
「鈴木砂羽」さん
北政所(おね)
「大竹しのぶ」さん
大政所(秀吉の母)
「奈良岡朋子」さん
なぜか発表された女性ばかりですが、やはり女性中心のドラマにして「大奥」フィーバー再び!を狙うようですね。
名古屋城検定 上級結果が来たよ!

先月受検した「名古屋城検定」上級の結果が届きました。
50問中21問・・・自己採点結果より当たってた?
全体の検定結果は・・・
受験者数:125名
合格者数:3名
合格率:2.4%
最高点:42点
平均点:22点
思った以上に地元の方にも難問続きだったようです。平均点付近ということで、来年は特典倍増を狙って頑張るぞ!
小松城 石川県の城館
小松城は加賀藩3代藩主前田利常が隠居城として、一国一城令の例外として整備された城です。

沼地の島を曲輪として利用し、梯川を外堀とした堅牢な城でしたが、近年は埋め立てが進み、沼地であったことを想像することもできません。
平成2年に小松市制50周年を記念して12本の石碑が立てられています。その中のいくつかを紹介しましょう。

ここは小松市役所前の芦城公園です。「三の丸跡」に整備されました。春には公園内いっぱいに桜が咲いて人で賑わいます。

隣りの小松商業高校の前には「二の丸跡」の石碑が立っています。商業高校と小松高校の校舎がほぼ曲輪の大きさです。

小松高校テニスコートの脇に本丸の天守台がひっそりと残っています。

テニスコートが本丸御殿跡、小松高校の校庭が本丸跡になります。

天守台の西側に唯一の掘沿いの石垣の遺構が残っています。

鰻橋跡の石碑から家の方向に、琵琶島から二の丸への橋(鰻橋)が架かっていました。ここにあった門の遺構が園町の来生寺に残っています。

この石碑から徒歩20分ほどですので、見逃さないように。

その来生寺へ行く途中に葭島神社があります。

この本堂は本丸御殿の一部が移築されたものと言われており、天井に天井画が残っています。

梯川の対岸には藩政期に天満宮が創建され、今も同じ地に残されています。繁殖中なのかカラスが着いてきて恐い思いをしました。
金沢城いもり堀 ライトアップ

水をたたえるいもり堀のライトアップを今日始めて体験しました!!

暗くなるまで待つこと17時半・・・

写真に撮影すると、暗いですね。実際はもっときれいなんですけど

水面に映る鯉喉櫓台はきれいですよ。

写真でもなんとか見える!?でしょうか。

鯉喉櫓台の後ろにそびえる辰巳櫓台には櫓が欲しいところですが・・・

北國新聞赤羽ホールに展示されていた20分の1の辰巳櫓模型が、しいのき迎賓館の二階ホールに移動してきました。これで多くの人の目に触れることになるでしょう。

赤羽ホールでは受付の前で恥かしかったこともありできなかった下からのショットを・・・
いいですね。再建の気運が盛り上がると嬉しいなー
金沢城橋爪門復元に着手決定
金沢城公園の第二期復元整備計画の最後を飾る橋爪門復元に今月着手されることが、先日地元新聞に報道されました。
今回復元されるのは「二の門」で、「一の門」と「橋爪櫓」は五十間長屋とともに2001年7月に復元されています。

しかし、この場所に復元されるにしては狭いと思っていたら、前年度に復元された河北門二の門の半分ほどだそうです。
埋文調査の開始に伴い、一の門から二の丸へ向うこの通路あたりは通行できなくなります。来年度には工事が始まるということで楽しみですね。
金沢城玉泉院丸 発掘作業は進む

先日お伝えしました金沢城の玉泉院丸の発掘作業が進んでいるようです。

今年度は北側の斜面部分とその下部を中心に進められています。

今日は作業が休みでしたので、どういう状態なのか知る術がありませんでしたが・・・

斜面部には排水溝と思しき石列が並んでいました。いつの時代のものでしょうね。
ディアゴスティーニ 「週刊 戦国武将ファイル」創刊!
ディアゴスティーニさんには「週刊 安土城をつくる」「週刊 野鳥の世界」と2セットの購読を継続させられていますが・・・
今日また1つ購読が増えてしまいました。

「週刊 戦国武将データファイル」 創刊号はバインダー付きです。
2冊で580円、なぜかバインダー2冊セットより安いですな。

立体的な戦場マップ

立体的な城郭マップ
期待したより絵が少しちゃっちいな。とりあえず100号まで続くようですので、もう少しマニアを唸らせる内容の充実、というより本格的なイラストやCGが欲しいところですね。。
堺南砲台場 大阪府の城館
南海堺駅の西にある大浜公園にきました。

ここには、幕末に砲台が多数設置され、沿岸の防衛にあたっていました。

公園の一角には当時の石積みの一部が残されています。

菖蒲園が整備され、景色の一部となっている石積みですが、

台場跡の東側にあたる部分であり、他は開発を受けて残っていないようです。

堺「南」砲台場というくらいなので、堺「北」砲台場もあったのですが、

現在は、工場が立ち並ぶ地域として開発を受けており、全く痕跡が残っていないようですが、観光客は近くの旧堺灯台は見に行っても、堺南砲台場跡は見に来る人がほとんどいないようなのが残念です。
国見城 大阪府の城館
あいにくの雨でしたが、大阪府堺市の国見城跡へやってきました。

って、ここは「仁徳天皇陵」じゃないか?と思われたかもしれませんが、ここは戦国時代、讃岐・摂津を拠点とした三好氏により城跡として使用されたことがある、れっきとした城なのです。

30代以上の方は学校で「仁徳天皇陵」と習ったと思いますが、今は「大仙陵古墳」というのが正式名のようですね。

5世紀中期の築造と考えられている仁徳天皇陵は、全長約486メートルの日本一巨大な古墳です。
天然の城郭となった訳は・・・

この古墳のまわりを囲んでいる大きな水掘です。

現在は宮内庁の管轄で、一番外側の掘より中には入ることはできませんが、

三重にめぐらされた堀はそれぞれに幅が広く、

鉄壁の平山城の備えですね。本当に大きい、平地の堺市内からは山のように見えます。
金沢城 玉泉院丸発掘2010始まる

今年度の玉泉院丸跡の発掘調査がゴールデンウィーク明けから始まりました。

今年は昨年の第四地点。玉泉院石垣コースからみると手前の部分です。

この地点は玉泉院丸の色紙短冊石垣のちょうど真下にあたる部分ですが、

玉泉院丸の大池の一番奥まった部分でもあります。

藩政期の絵図にはこの場所に石組と導水路を描いたものがあり、古文献に11代藩主治脩の改修した滝の遺構が見つからないかどうかに期待がかかっています。
金沢城 晴天の中のいもり堀はいいねえ

ゴールデンウィークを過ぎて、金沢は人出も一息ということころでしょうか?

ここ、いもり掘の鯉喉櫓台もようやく無人の状態で撮影できるようになりました。


広い櫓台から見る水堀はいいですね。金沢城のもうひとつの水堀、大手掘は高台から望むというような立地ではありませんから。


本丸の石垣といもり堀がいい風景です。金沢へいらした際はぜひ鑑賞してくださいね。

桶狭間古戦場を巡る旅(・・・かなり強行軍)
名古屋城検定を終えた日曜日、快晴の中、桶狭間古戦場をめぐりました。
行程は、JR名古屋駅→JR大高駅→大高城→城下の寺社→鷲津砦→丸根砦→桶狭間神明社→戦評の松→長福寺→桶狭間古戦場公園→おけはざま山→高徳院→名鉄中京競馬場前駅→名鉄鳴海駅→中島砦→城下の寺社→鳴海城→善照寺砦→丹下砦→星崎城→JR笠寺駅まで、総時間8時間の徒歩の旅です。
各城館レポートは別記事として書きましたので、ここでは桶狭間古戦場の話題を。

名古屋市緑区有松町にある「桶狭間古戦場公園」です。

ここには「今川義元の供養碑」があります。

以前は他に何もない公園だったようですが、今は桶狭間の戦いを再現するため、主要な城館などを石に見立てて配置したジオラマが今年3月に作られました。

義元軍と信長の行軍路をわかりやすく理解できるようになっています。
ジオラマの手前にある2つの大きな石も・・・
と思いきや、これは義元と信長の銅像の台座だそうです。

そうです。自分が訪れたのは「桶狭間古戦場まつり」のちょうど一週間前だったので、まだ銅像が運び込まれていませんでした。2、3日後に設置されるということで、ある意味では貴重な写真です。

この辺りは「義元公首洗いの泉」があった場所とされ、近年でも区画整理の際に湧き水がでたそうですが、今は何も痕跡がないので、公園内に泉を模したモニュメントが作られました。

ここを訪れたとき、ちょうど地元ボランティアガイドの方と会い、しばし歓談していましたが、一週間後のまつりに「泉にも何か欲しい!」という意見があったらしく、桶を持ってきていました。
「桶」狭間だけに手「桶」を水に浮かべて、と少し駄洒落風ではありますが、これが桶を浮かべた記念すべき初ショット写真でありますよ!
その後、ボランティアガイドの方と別れて、おけはざま山の方角へ。
と、公園は山の中腹にあるのでさらに高い場所へ上りましたが、ガイド本にある「おけはざま山」の石碑が見つからずウロウロしているうちに、頂上あたりを行ったり来たりしたので、その場所からの眺めを収めました。今は住宅が立ち並んでいて、パッとは開けていませんが、当時はこのあたりは田畑だったわけで、見晴らしは良かったことでしょう。

と、さらに住宅街をウロウロしていると、山頂と公園の中間ぐらいのアパートの前に石碑を発見!

ガイド本にはこのアパートの名板が写っておらず苦労しました。
古戦場の各城館は数時間で移動できるような近距離に位置するため、奇襲するには時間との勝負だったはずだなあ、と当時を振り返ることができました。
星崎城 愛知県の城館

電車の写真・・・
ではありますが、奥に見える一段高い台地上に「星崎城」があったと伝えられています。

現在、城跡は「笠寺小学校」の敷地となっています。

校庭などもあり、かなり広い平坦地がもともとあったと推定されます。

が、遺構らしきものは地形以外は何もないですね。
丹下砦 愛知県の城館
鳴海城の北側に位置した砦が丹下砦です。

しかしながら、丹下砦は実際にどこにあったかわかりません。開発が進んだため発掘調査がままならない状況もありますが、遺跡分布図の推定値がこの辺りです。

駐車場から西側をのぞむと平野が広がっています。

下から同じ場所を見上げると、こんなに落差があります。

奥に見える台地のどこかに丹下砦があったのでしょうね。
善照寺砦 愛知県の城館
鳴海城を東に、台地を上っていき、ひときわ高くなっている場所まで来ると、ここが「善照寺砦」跡です。

現在は「砦公園」となっていますが、周辺道路からの高低差もかなりあります。

山頂の公園はそう広くはないですが、

ここからは大高や桶狭間の方角がよく見えたことでしょう。

鳴海城 愛知県の城館
名鉄鳴海駅を北側にしばらく行くと、鳴海城跡があります。

成海神社の境内に「史跡 鳴海城址」の石碑がありますが、

境内は城跡の西端あたりになります。

境内から駅方向に向けてなだらかに傾斜しています。

道路を渡って、東方向に歩くと、

「鳴海城跡公園」がありますが、公園整備のため、遺構らしきものはありません。

が、公園から眼下をのぞむと、ここが山上にあることがよくわかります。鳴海城跡は数回にわたり発掘調査がされており、ちょうどこの公園のまわりの道路などで行われているのですが、道路の下に堀跡などが見つかっています。
中島砦 愛知県の城館
名鉄鳴海駅の北側に流れる川沿いに東に歩いていくと、2本の川が合流する中洲地帯が見えてきます。

ここに中島砦がありました。観光用地図の中島砦は遺跡分布図とは違う場所が示されていますが、後で調べると、私有地に石碑を立てた方がおられるようで、この石碑を見逃してしまいました。

遺跡地図上は中洲の北側となっています。

ちょうどこの住宅街の辺りとなるのですが、開発が進んだ今となっては何も痕跡らしいものはありません。

住宅街を用水が流れていますが、これが砦跡を利用したものなのか?近代に掘削されたものなのか?どうもわかりません。
丸根砦 愛知県の城館
鷲巣砦から丸根砦に向いましたが、間に大高台地が横たわっていて迷ってしまいました。

ようやく辿り着いた入り口も、観光道としてはどうも裏口だったようです。

入るとすぐに案内板があります。本丸となった山の山頂部とまわりを囲む外掘が残っているようです。

案内板の近くの外掘跡は外側に土塁が残りますが、

少し進むと、外側の土塁はなくなります。今は通路のようになっていますが、ここが外堀だと・・・思います。

急な斜面を階段を上ると、山頂はそれほど広くはありません。桶狭間の戦いの慰霊碑が地元町内会によって立てられていました。

一段下りた森の中に「史跡 丸根砦址」の石碑が立てられています。

反対側の階段を下りていくと、入り口に看板が立っています。といってもこちらもわかりにくい場所ですね。ここまで大通りからどうやって到達するのでしょう?

しかしながら、荒れているわけではないので地元の方に大事に守られている砦跡だと思いました。

奥に見える森が丸根砦です。
鷲津砦 愛知県の城館
JR大高駅から程ないところに鷲津砦跡があります。

砦跡は現在「鷲津砦公園」となっていますが、土曜日にもかかわらず人はまったくいません。といっても、小さな公園です。

大半は森となっているようですが、一帯の山腹は住宅街になっているところもあります。

砦跡を通る通路は一本ですので、迷うことはありません。

少し上って平坦部に出ると、忠魂碑とその横に「史跡 鷲津砦址」の石碑が立てられています。


石碑を過ぎてすぐに住宅街に隣接した公園に出てきます。

遊具のある公園の一角に「鷲津砦跡」案内板が立てられています。

これを見ると、実際の史跡範囲は意外に狭いものですね。

この鷲津砦跡からは木々が遮って大高城のほうを見渡すことはできません。残念。