中世に勢力を誇った三国湊白山千手寺は、南北朝期には城郭として利用され、太平記にも登場する。

平城だから当時は塀と堀に囲まれていたのだろう。この場所は海岸からわずかに上がっているが、とても高台とまでは言えない場所である。

解説板も設置されているが、非常にわかりにくい場所にある。

近くには特徴的な山門の妙海寺がある。

現在城地はその妙海寺の西墓地として利用されている。

千手寺城とも呼ばれた地には、現在石像の千手観音像が立っている。
カテゴリー: 攻城記
丸岡藩砲台(丸岡藩台場) 福井県の城館
三国東尋坊近くの越前松原と呼ばれる景勝地に丸岡藩砲台があります。砲台というのは近世末に外国船の侵攻に備えて海岸を中心に造られた「台場」と言われている施設です。

整備から長い時間が経つのでしょう。史跡内に立てられた石碑は海風に煽られて傾いています。

入口には駐車場も完備されていますが、雨降る日曜日の朝にここを訪れる者はいません。

松原というだけあって松が多いようですが、砲台は海岸沿いの低い平地に作られていました。

東尋坊に近いこともあるのでしょう。岩がむき出しの崖地も所々にあり、

台場の材となる石材には事欠かないようです。ふと、海を眺めると・・・

最も遠くの石の上に、今も海を見守るように一匹の鵜が止まっています。

大砲は撤去されていますが、その台の保存状態は良いようです。台場一帯がこれほど良好に残り、当時を想像できる場所も少ないのではないでしょうか。

海側から見るとこういう感じですが、すべて石積みではなく、大砲を置いた場所の両側が石垣で、後は土塁となっています。

内側から海を狙うとこんな感じです。先程の鵜を狙い撃ちするとこうなります。内側のほうが石垣が重厚に積まれています。

よく見ると、積まれた石には「嘉永」の文字が刻まれたものもありますよ。ぜひ現地で確かめてください。
吉崎御坊 福井県の城館
芦原にある吉崎御坊に行ってきました。

ここは本願寺八世蓮如が北陸布教の足がかりとして拠点を置いた場所です。

本堂のあった場所は「吉崎御山」と呼ばれ、史跡として保存されています。

高台に築かれた御坊からの眺めはよく、海が近く、物資輸送にも適した土地だったことがわかります。

本光坊了顕の墓。文明六年(1474)の吉崎御坊炎上のとき殉教した方だそうです。

祐念坊霊空の墓。北大手口参道を守護した吉崎惣道場、吉崎御坊願慶寺の開祖の墓。

蓮如お手植えの松の木ですが、今は根本がわずかに残るのみです。

蓮如上人銅像。高村光雲の作だそうです。

御本堂跡。南に面し柱間五間の大きさだったそうだが、三度の火災で焼失した。

御腰掛石。御坊があった頃からあったもので、蓮如も腰掛けだろうと「吉崎山絵図」に書かれているそうです。

見玉尼公墓。蓮如の第四子(次女)でこの地で亡くなりました。
今日は時間がなく山上のみの見学だったので、次回は麓も散策してみたい。
八戸城 青森県の城館

八戸城にやってきました。

城の北部に八戸駅ができ、城下町との間にあった城内の大部分は開発されましたが、

その一部が三八城公園と市役所や市公会堂となりました。

今日は市役所前で催事が行われており、たくさんの人が来ました。

三八城公園に入ってすぐ右側に、

本丸跡の碑が立っています。

公園内には八戸藩初代の直房公の銅像が立てられています。

公園脇に行って駅の方角見ると、この場所が小高い段丘の上にあることが実にわかりやすく体験できます。市役所駐車場も車と人の出入口に非常に高低差があります。

市公会堂と公園の間に、三八城神社が建っていてここも城内です。

地震の影響でしょうか?本堂横の稲荷神社の鳥居が崩壊していました。
新田城 青森県の城館

八戸市街から少し郊外の新田八幡神社にやってきました。

標高38メートルの低い山ですが、かなり急勾配で中腹にある鳥居の横に、新田城の案内版と庚申の石碑が据えられています。

頂上一帯に2つの郭があったと考えられ、そのひとつが新井田小学校、

もうひとつは八幡社となっています。中に宅地や畑もあります。

その八幡社の本殿前に城址の石碑があります。

境内からは八戸市街が一望できます。

町会ではこの新田城を大事にしているようで、秋には「新田城まつり」が開かれています。今日は開催前だったようで。
根城 青森県の城館
天候が良くて良かった!!はるばる八戸の根城にやって来ました。

見逃しそうな根城の石碑。遺跡内の園路とは外れた国道寄りに立っています。

駐車場は八戸市博物館前にあります。

八戸市の歴史を学べる博物館前には

八戸南部氏の祖、師行公の銅像が馬にまたがる凛々しい姿で建てられています。

史跡根城の広場の入口の門は、八戸城の東門、八戸城の貴重な建造物遺構です。

復元イラストによると、この根城はいくつもの郭が連なる構造です。手前が本丸なので、園路は奥のほうから手前のほうに進みます。

門をくぐるとすぐに深い空堀が見えます。こういうのが中世城館の醍醐味ですね!
福井の一乗谷朝倉氏遺跡と並ぶ、中世城館の復元事業の先駆けですから、見応えありますよ。

東善寺跡

中舘跡

中舘には四阿(あずまや)が建てられ、中は休憩施設となっています。

この郭を隔てる空堀がいいんですよ。

こうして見ると、当時北側を流れていた川のほうが急に低くなっており、根城が段丘沿いに作られたことがよく分かります。

最後は本丸です。この中に入るのは有料となります。

本丸への唯一の通路だった木橋を渡って、中に入ると復元された主殿や

掘立作りの納屋

馬屋

鍛冶場など中世の暮らしがどういったものだったのか、立体的にわかるように復元されたものがたくさんあります。

根城の広場自体見所が多く、じっくり見てまわると2時間では到底見ることができません。興味ない方にはあっという間でしょうが、ぜひ詳しい方とまわってください。
そういう人はいないという方は、入口にボランティアの方がいるので案内してもらうと良いでしょう。植栽ばかり説明される場合もあるのですが・・・

博物館ではこの本丸を復元した模型も展示されています。ぜひ余裕を持って根城を訪ねてください。
盛岡城の夜景 岩手県の城館
8時過ぎにようやく宿泊先の盛岡に到着しました。小雨も上がったようなので、折角なので夜の盛岡城を散策します。

この時期ライトアップと呼べるものはなく、防犯用の緑色の外灯があるのみでした。かなり光量が少ないですが、外灯に映える石垣を撮ってきました。


真っ暗な足元を気にしながら本丸に行き、そこから盛岡の街を・・・やはり少し明かりが少ないかな?

外周部も外灯のみでしたが、とにかく一周してきました。肉眼で見るより写真は暗くなってしまいました。


明日はこの石垣群を昼間に見れるのが楽しみです。
姫路城 東部中濠をめぐる 兵庫県の城館
前回は埋め立てられて道路となった南部中濠から西部中濠をめぐりましたので、今回は東部中濠をめぐりました。

範囲は内京口門から野里門までです。

東部中濠も南の一部は埋め立てられ、この内京口門の手前部分から残っています。

広い堀と内側の土塁がセットで残っています。堀は流れが止まっているためか濁っています。

土塁に案内板が立っていますが、絵図は消えかかっていました。

堀沿いに北に向います。堀が鍵状に折れる正面に内京口門があります。

門両側の石垣は残っています。この東中濠の内側には現在学校や病院が並び、この内京口門の中にも賢明女子学院高校があって、中から見学することができません。

しかし、案内板のイラストを見ると両側の石積みは元々のものではなく、門は内枡形でこの両側は塀だったようです。

門の東側、濠は道路で寸断されていますが、細い水路で南側とつながっているようです。

門の西側、北側に濠は折れています。

北側へ濠は続きます。

暑い中、日陰になった濠沿いの通路を歩きます。

しばらく歩くと橋にぶつかりました。

ここが久長門です。

ここも内枡形門ですが、この南側の石垣、北側の石垣ともに、外部分の石垣の上部は取り去られています。

北側の石垣も道路幅を広げるため、奥の石垣は南側を削られていると考えられ、その平面は当時のものではないかもしれません。

久長門を後にして、さらに北へ歩きます。ここから歩道は住宅地に隣接して、裏道という感じです。

徐々に西側にカーブしてきました。

この辺りまで来ると濠の水も澄んできて、泳ぐ鯉もくっきり見えるようになりました。小さな小魚もいるようでしたが、ここは魚釣り禁止地区です。

大きな道路が見えてきました。

ここが野里門の外側のようです。濠は左手に折れて、後ろ(西)側に流れます。

枡形の真ん中を道路を通り、向かい側に石垣が見えます。

この野里門も内枡形門です。イラストの右側が北側です。

案内板の後ろに残る石垣は枡形の内側の西側部分の石垣の一部です。

北側を流れる濠は幅が少し狭まっているようです。歩いている間は観光客はまったく見ませんでした。中濠も姫路城の魅力のひとつですよ!
姫路城大天守の鯱を比べる
姫路城の大天守は修理中

初公開の「リの一渡櫓」では、

修理で下ろされた鯱を含め、歴代の鯱が展示されています。

遠きにあっていつもは見づらい鯱が間近に見れるよい機会なので、各時代の鯱を見比べてみましょう。

昭和時代の現役の鯱。

先代の明治時代の鯱。

江戸時代の鯱。
それぞれの違いを遡りながら比較します。

頭、牙と耳が大きい昭和時代の鯱

黒目のない明治時代の鯱。

見た目はかわいい?マヌケ顔?の江戸時代の鯱。鯱って守り神だからもっと怖い顔をしているのでは?

昭和時代の足ヒレ。簡略化され、体の鱗も小さい。

明治時代の足ヒレは彫りが深く、鱗にも穴が空いている。鱗模様はこれが一番クッキリしていて良い。

江戸時代の足ヒレは小さい、鱗は大きめ。

最後に尾ビレ。昭和時代の尾ビレは両側に大きく広がっている。

明治時代の尾ビレは彫りが深い。中央に真っ直ぐの模様がこの時代の特徴です。

江戸時代の尾ビレは幅が一番狭い。
ちょっと変わった記事を書いてみました。どうですか?
敏満寺城 滋賀県の城館
名神多賀SA上り線(名古屋から京都方面)に隣接して、敏満寺城跡があります。

多賀SAのある青龍山一山が敏満寺であったので、サービスエリアとなっている場所もその一部です。

敏満寺は、青龍山を御神体として12~15世紀頃に繁栄した寺院で、当時は比叡山を凌ぐとも言われています。そのため、その勢力は戦国時代にあって無視されることなく、浅井長政や織田信長に幾度も攻められて焼失し、再建されることはありませんでした。

サービスエリアから故宮神社に至る遊歩道沿いの発掘では、坊跡や井戸跡、鍛冶場跡、火葬墓跡が見つかり、

一部土塁と思われる遺構もあります。

10分ほど歩いて、故宮神社に到着しました。

広い境内のようです。

境内に旧敏満寺の古井戸と焼石塚が残っています。

西側から入る大鳥居まで来ました。

大鳥居を入ると急な階段が続いています。要害ですな。

境内の一部に残る石垣は敏満寺のものか、神社のものか判断しづらいですが、立派な寺院だったのでしょう。

社務所の庭園は名勝に指定されているそうですが・・・

なんかどことなく荒れ果てている雰囲気があります。

観音堂の横に

石仏が並んでいます。

拝殿と

その後ろの本堂となります。

拝殿前にあった神社パンフレットをいただいてきました。

境内から見渡す景色はよい眺めです。こちらは安土方面。

そして、彦根方面となります。右端が多賀SA下り線となります。
一乗谷朝倉氏遺跡 城戸の外を歩く 福井県の城館
下城戸の石垣と上城戸の土塁の間は、朝倉氏とその家臣が居住した空間で、「城戸の内」と呼ばれていますが、シンポジウムでそろそろ城戸の外にも注目を!という話があったので早速散策をしてきました。

下城戸の外、刑場として使用されたと言われている「武者野」と呼ばれる地です。

傍らには見つかった石像が祀られていました。

この辺りに足羽川の湊があったとも言われています。

上城戸の外、御所と安養寺跡です。

安養寺は大きな寺院だったらしく、

足利義昭が将軍になる前に朝倉氏に匿われていたときに、安養寺に隣接して御所を構えたと言われています。石垣がわずかに残っています。

隣接する御所跡。

広大な遺構には何もありませんが

隣接する西側の山裾に入口らしきものが・・・

現在も林業の方が使用されるようで道が続いていますが、三段ほど落差のある砦跡のようです。

上城戸の西側の山裾にある盛源寺。現在の本堂裏の墓地は使用されているようでしたが、

本堂までの石段脇には見つかった石像が並べられ、

本堂の建つ平地には一際大きな石像が並んでいます。

一段高い本堂は街道の見張り台としてもちょうど良い高台に建てられています。

最後に城戸の内を散策。
夕方の城戸の内は人気も少なかったですが、ここは南陽寺跡庭園の下にある瓜割清水と呼ばれる湧き水です。暑い中でしたが、水はとても冷たかったですよ。

特別名勝 南陽寺庭園

特別名勝 湯殿跡庭園

特別名勝 朝倉館跡庭園
一乗谷にはもう一つ特別名勝の諏訪館跡庭園があり、全部で4つの特別名勝があります。城戸の外も見どころ一杯の一乗谷朝倉氏遺跡でした。
一乗谷城下町 西山光照寺跡 福井県の城館
シンポジウムに参加するため一乗谷朝倉氏遺跡資料館へやって来ました。昼休みに発掘調査の真っ最中だと紹介された西山光照寺跡へ。

資料館から徒歩5分ほどのところの山裾に西山光照寺はありました。北の庄と呼ばれた現在の福井市や府中と呼ばれた武生市(越前市)から攻めて来たとすると、最初に見える障壁がこの西山光照寺となるそうです。寺院群が砦として利用されていたのでしょうね。

すでに整備された東側に隣接する西側を今年度は木々をすべて伐採して発掘調査しています。

発掘前にも地表から一部が現れていた「南無阿弥陀仏」と掘られた巨石もまるまる掘り起こされていました。

トレンチが何本も掘られていて、地山を確認しているようです。

先程の巨石が石垣のちょうど角に当たるようです。西側の巨石群ほどではないにしても、北側の石積みも大きな石が多いです。破壊されて地上1、2段ほどしか残っていませんが、往時はとても立派な石垣が続く壮観な風景だったのでしょうね。

寺院跡の入口に枡形になる?のかな、凹んだ石積みがありました。

発掘調査で見つかった石像が並んでいます。

石柱は線路からは見えるけど、見学者には見えない場所に・・・?なぜ

さて、西側はどう整備されるのか、楽しみです。
後瀬山城 福井県の城館
北陸道敦賀ICから舞鶴自動車道小浜西ICに向かう国道27号線、最後に通る後瀬山トンネルの上に後瀬山城はあります。今週末から小浜ICが開通しましたので、もう通る機会は減るでしょうが。

今まで登り口がよくわからなかったのですが、東側の麓の愛宕神社鳥居から登ります。

入口の案内板を見ると、本郭に愛宕神社本殿があるようです。

1段上がると、末社が2社あり、

その脇を登っていくようです。

新しい案内板が立てられていますが、下のポストにパンフレットはありませんでした。残念・・・

ずっと上のようですから、また次の機会にしましょう。
小浜城 福井県の城館
今年のNHK大河の影響で観光客が増えるとみた小浜市は、小浜城の臨時駐車場を準備しました。そこから徒歩3分、観光客は他に誰もいませんでしたけど。

歩いて行くと畑の向こうに立派な石垣が見えてきます。

石垣に隣接して建つ民家。異様な光景でもありますが、少しうらやましい。

小浜城本丸の石垣は南側以外の三面が残されています。その南西隅石垣、階段が封鎖されていませんでしたので、登ってみます。

民家と先に見える湾、小浜城が海に面した海城たる所以ですね。

本丸は小濱神社の境内となっています。

境内に案内板が立てられていますが、地元では初の嫁いだ京極氏より、江戸時代に入封してきた酒井氏のほうが大事にされているようです。

本殿横に橋として利用された大石と城内の井戸が残されています。

北西隅に残る天守台

天守台にも上ることができます。天守台から東を臨めば、小天守台と先に湾が見えます。

西を臨むと、民家の先に湾が見えます。

本殿裏の北側から駐車場に戻ります。小浜城は石垣を間近に見ることができるのがいいですね。

帰り道、若狭歴史民俗資料館で見たこの地の風習、色で塗られた地蔵を祀った祠を発見しました。
敦賀城 福井県の城館
晴天の中、大谷吉継の敦賀城の遺構を探訪。大谷吉継で有名な敦賀城です。

敦賀西小学校の正門横に立つ敦賀城の案内碑です。平成9年に新たに立てられました。

3面の微妙な傾きの中、自分の映り込みを避けながら撮影するのは大変です。小学校の場所は絵図から三重の天守があった場所あたりだと推定されています。

そこから北に移動し、真願寺にやってきました。

寺の北を流れる闇加川。敦賀城の北限となる堀跡と言われています。

真願寺の境内に入ります。

境内の片隅に乾門と伝えられる礎石が野外展示されています。

最後に西に移動し、来迎寺まで行きました。駐車場と反対側が正門となりますが、寺門として移築されているのが、敦賀城の注文と伝わる門です。

部材を見ると、瓦や屋根裏など修築により新しくなっているものも見受けられますが、この戸の部分は古いようです。
敦賀城の遺構としては、南限と考えられる八幡神社の境内に表門の礎石が展示されているようです。
金ヶ崎城 福井県の城館
敦賀湾に面する山に構築された金ヶ崎城。朝倉氏と浅井氏に挟まれ、織田信長が這々の体で撤退した金ヶ崎の退き口で有名となりましたが、南北朝時代、新田義貞が陣を張った古くから北陸道の要所となった城です。

しばらく続く石段を登って行くと、城の入口は金崎宮の境内地となっています。

石段脇に新しく立てられた看板を見つけました。城跡というより公園の設備の説明板ですね。

横には城跡の解説板が新しく立てられています。

境内まで上がると、以前から立っている古い城跡の案内板が今も立っています。

境内にはNHK大河ドラマ「功名が辻」のときに製作された金ヶ崎城と天筒山城の模型が今も展示されています。

遊歩道の入口に立つ石碑。

遊歩道の入口でもこれだけの高さ。
敦賀市街を眺めると、左手に天筒山を望むことができます。
春日城 長野県の城館
伊那市にある春日城にやって来ました。ちょっと道に迷いましたが。

後で歩いていたときに地図を見つけました。縄張りはこんな状況です。

それで、道路沿いの駐車場に車を停め、春日公園へ。最初に遊具が並ぶ三の丸に入ります。

三の丸と二の丸の間に架かる三の丸橋です。公園としてかなりの改修をうけているので、本来土橋だったのか、木橋だったのかはわかりません。

郭の間の空堀は深いです。

二の丸は本丸を西側と北側から囲むような配置です。

三の丸から渡るとすぐに本丸へ架かる橋は二の丸橋です。

二の丸橋を渡ると本丸には土塁跡を見ることが出来ます。つつじが植えられていますが、元は明らかに土塁でしょうね。

本丸からは伊那街道がよく監視できます。

天気が悪いのが残念ですが、雨はあがりました。

本丸と二の丸に架かるもうひとつの橋は本丸橋と呼ばれています。

空堀の斜面はきれいに植栽されています。

本丸橋のたもとに石碑が建てられています。

公園内には歴史の石碑と「本丸跡」の石柱が立っていますが、城跡の石碑がないなーと思っていたら、本丸の斜面に「春日城跡」という看板が立てられていました。

城下は伊那街道が通り、清水が今でも使用されているようです。

さらに、伊那部宿という宿場町となっていて、最南には今も井澤家住宅が残されて公開されています。

街道沿いには他に何か残っているのかと思って歩いてみましたが、何もないですね。

ただ、各家の表札が変わっているなーと思っていたら、

宿場だったときにあった宿や店が書かれていました。気づくのに時間かかりましたよ。面白い試みだけど、わかりづらい。
高遠城 長野県の城館
南側の断崖絶壁下に三峰川が流れる高遠城。

殿坂口から車で上ります。

駐車場になっている勘助曲輪へ。

手前は武家屋敷だった場所です。

道路を挟んだ三の丸には伝大手門と伝わる門が移築されています。

一度坂を下って少し戻ります。

大手門があった場所です。

右側を見ると、立派な石垣が残っています。

城内には高遠藩の藩校であった進徳館が保存されています。

中には入れませんが、ぐるりと建物のまわりを一周できます。しかも無料です。

では二の丸北入口から入ります。

二の丸から南曲輪、法憧院曲輪と進んでいくと、信州高遠美術館に出ます。天守風のコンクリート建物がこの風情ある城跡を台無しにしているような・・・

法憧院曲輪の南入口です。桜百選で有名な高遠城址ですが、観桜期は有料になります。

桜が散った跡はただの広い曲輪です。観光客も少ないですね。

本丸に1つ太鼓櫓が復元されています。

階段は付いていますが、当然上ることはできません。

一段下に小さな笹曲輪という郭が広がっています。

そこから見上げる太鼓櫓は絵になりますね。葉桜が満開だったらもっと絵になるのになー

本丸には新城福原神社が鎮座しています。

社殿の前の囲みは井戸か?水の手が大事だったはずの山城ですが、ここまで井戸らしきものは見ていません。あまり残っていないのか?

本丸入口に移築された問屋門です。もともとここにあった門ではありません。

問屋門前の桜雲橋の架かる空堀には池が2箇所、今でも水を湛えています。

もう少し暑くなれば蚊が大量発生しそうですが・・・

橋を支える石垣は城内随一です。これは当時のものか?橋を架けるためのものか?

さあ戻ろうかと階段を上っていると、脇に井戸を発見!

これは古い井戸です。底は埋まっていますが、覗き込むことができるほどの安全な高さしかありません。
公園案内のチラシは桜見物用で曲輪や建物は描かれていますが、城跡としての要素、空堀や石垣、井戸の表記はほとんどありません。やはりここは城跡を楽しみに来るところというよりは、桜を楽しむ場所なのか?
松本城 長野県の城館
国宝松本城にやって来ました。

開智駐車場に車を停め、開智口から入ります。

松本城への入口は他に3箇所。駅から歩いてきたときは、ここ大手口から

そして、市役所のある東側は平成11年に復元された太鼓門。

二の丸御殿の北側からも入ることができます。この橋の隣に本丸に入る橋もありますが、そこだけは通行止めです。

埋の橋です。赤い橋が黒の天守によく似合いますが、藩政期にこんな赤い橋があるはずもありません。

内堀の中程から見ると、天守が大天守、乾小天守、月見櫓とすべての建物を見ることができます。

では、復元された太鼓門からじっくり見ます。

二の門から入り枡形に入ります。

案内板に鳥瞰図があり、非常にわかりやすいですね。

二の門を内側からみると、高麗門である様子がよくわかります。

一の門の脇に大きな玄蕃石と呼ばれる巨石が配されています。

一の門を支える大きな赤松が大梁として使用されています。

二の丸に入ります。

建物位置が示されただけの二の丸跡はとても広く感じます。

隣とは言え、天守は中程のこの位置に来ないと見えません。

二の丸と本丸の間の内堀ではなにやら工事をしていました。

どうも石垣が崩れたりはらんでいる場所を補修しているようです。

ぱっと見てもこのような場所が何カ所も見える。

雨が大きくなってきた。黒門から入る前に博物館に寄る。

博物館に寄っている間に、一際雨が大きくなってしまった。天守向こうの山のさらに向こうにアルプスの山々が天気良ければ見えるのですが。

黒門の一の門は昭和35年に、先程の二の門は平成2年に復元されました。大雨の中、続々の観光客が入ってきます。

藤棚は今が満開。

本丸内のつつじも満開です。

それでは天守に入りましょうか。入口は乾小天守にあります。

乾小天守、大天守ともに隅に石落しが付いています。

午前から大勢の観光客が押し寄せて、最上階まで辿りつくのが大変でした。
最上階についたところで、雨の中では遠くまでは見渡せるはずもありません。

最上階の天井には神様が祀られています。

上るには時間がかかっても、降りるのは早いです。あっという間に出口のある月見櫓です。

この時点では入る時よりさらに雨の勢いは強くなり、堀の白鳥も石段で身を休めていました。

大雨の中、駐車場に駆け込み、傘をさして城の北側を散策です。
外堀はほとんどは埋め立てられてしまいましたが、市役所裏のこの場所だけは五〇メートルほど残されています。しかし観光客もなかなかここまでは足を延ばすことはありません。

惣堀の横の公園内に北門大井戸が残っています。松本城のまわりにはこのような井戸がたくさん残っています。

ここは北馬場柳の井戸です。ここは元惣堀であり、埋立地に湧き水が出たらしいのですが、隣りの柳の木はとても大きかった。柳の木って大きくなるの早いんですね。
次回行ったときは南側も散策してみなければ!
中野陣屋 長野県の城館

中野市街にある中野陣屋県庁記念館です。

ここに中野県の県庁がありました。

県庁の前は、天領として中野陣屋があった場所です。

それでは中野陣屋跡を散策しましょう。

記念館前は陣屋の堀跡が用水として今も利用され、

西側に残る石垣が陣屋のあった当時を忍ばせます。

西側の石垣の途中は切れて階段となっていますが、これは後世のものでしょうね。

記念館の開館が10時なので、それまで時間があったので周辺を散策します。
すぐ近くに陣屋跡の記念碑が建てられていて、文字は徳川18代の御筆によるもののようです。

徒歩3分ほどで、陣屋の少ない遺構である「陣屋井戸」が道路沿いの店舗に挟まれるように残されいます。

井戸の凸型の石には「不忘井」と書かれています。どういう意味でしょうか?

陣屋井戸の前、鈴泉寺の門前に建つ石碑には、高木清左衛門代官と手代、手付たちの名前が見える。

戻って記念館の中に入ります。無料の記念館では陣屋や県庁など中野の歴史を見ることができます。

展示のなかにこの辺りの旧街道図がありました。
北国街道が牟礼-善光寺-篠ノ井-上田-小諸と進むところ、長沼-松代という分岐もあったようです。その北国街道から須坂-小布施-中野-飯山と進む「谷街道」という脇街道があり、中野で分岐して草津へ向かう「草津道」があったようです。
これを見ると、飯山、須坂、草津の分岐にある中野は天領として重要な地であったことはうなずけますね。